shibuya slow stream vol.26「rooted hope」ふりかえり考察トーク
イベントを実施して、おしまい。それは、「ビルを作っておしまい」の街づくりとどこか似てきます。shibuya slow streamは、そうであってはなりません。企画や準備に心を費やして迎えつつ、その成果をどうやって積み重ねていけるか!?というところが大事なはず。というわけで、心に留めておいたり、次に活かしていくための手応えや感触って何だったの!?それを一同でふりかえって考察していく時間も大切にしています。ここでは、その一部を当日の様子とともにご紹介します。
index
- 今回のテーマ:「rooted hope」
- 根ざしておかないと希望がどこかにいってしまいそう
- なにが再生したら「渋谷川の再生」と言えるのか
- そうなっているということは、誰かがそう努めてきたということ
- 夢が埋め込まれている都市には力がある
- 居たいと思える流れをどうにか力を合わせてつくる
- お店の構えが持つ公共性と表現
- 流域的に考える
- 根を持ちたいという欲求が無視されている社会
- 母語のように獲得される「母地図」
- アンブレラ・スピーシーズと生き物の賑わい
- 自分が生きている世界の手触り感があるかどうか
- 根を張るということは動かないということではない
- 宿し宿されている力
- 力を解き放ちたい
- 声なき存在のもっている力
- 練習、実践、実験、経験
今回のテーマ:「rooted hope」
良い都市とは、どのようなものか。実践に、歴史に、土地に、文化に、根ざす希望。良い都市には、 それがあります。そして、根を張るということは、やがて実をつけ、遠くにも届くということでもあります。
根ざしておかないと希望がどこかにいってしまいそう
-今回もたくさんのアンケートを頂けて嬉しかったですね。居心地の良い体験というものが渋谷の駅前で訪れるということへの驚きや感謝の声が、たくさん、たくさんですよね。
本当に。一つずつじっくり読ませてもらっているわけですが、そういった声にとても励まされているということを改めて声を大にして言いたい気持ちです。
-なんか、諦めていたけど、そうではなくなったというニュアンスも多いですよね。
都市が、諦めの集積地みたいになるのもしんどいですからね。
-それこそ、希望っていう。
しんどいことも多いんで、希望っていうものを改めて考えたい気分だったんです。なんだけど、なんか、根ざしておかないと希望なんてものはどこかにいってしまいそうで。
-rooted hope。
ポスターには、アンケートのお願いの小さな黄色い紙が風で揺れていました。たくさんのご協力、ありがとうございました
Eq(E.O.U + vq)
Spiral Club(渋谷川のほとりのビオトープ観察とオープンミーティング)
フィールドワーク的清掃活動「渋谷川のほとりのゴミ拾い」
なにが再生したら「渋谷川の再生」と言えるのか
とはいえ、ちゃんと足元に希望みたいなものってしっかりあって。
-すぐそこにある希望。
だって、slow streamの会場にもなっている渋谷ストリームの広場ですが、ここが立ち上がるときに「渋谷川の再生」という構想が発表されて、素直にとてもわくわくしていたんですよね。
-2018年に渋谷ストリームができるまえは暗渠(地下化)だったんですもんね。それが地上で見えるようになったし、水流も復活させた。
はい。かつてはドブのようでもあり臭いも漂っていたことを記憶しています。この「渋谷川の再生」に携わった方で、当時の渋谷区都市整備部まちづくり推進担当部長だった奥野和宏さんが「地元で意見交換会やワークショップをやって、『地域の宝物は何ですか?』と聞くと、渋谷川というワードは必ず出てくるんですよ。一方で、『地域の課題は何ですか?』というと、そこでも必ず渋谷川が出てくる」と言っているのを読みました(日建設計「開発から生まれた新しい居場所、渋谷川再生と渋谷リバーストリート」より)。
-それくらいの状況だったんですね、川が。
そうそう。でも、もともとは渋谷川って、玉川上水の水や湧き水が集まる豊かな清流だったわけですよ。渋谷川に降り立った活動をしていた際に、カートを押しながら歩いていた高齢の方に話しかけられて、「昔は泳げたんだよ」「蛍やウナギもいたんだよ」って教えてもらったことがあります。
-清流だったことにも驚きますけど、そうやって、ずっと暮らしを営んできた人がいらっしゃるということにもハッとさせられます。
渋谷川のほとりのエリアって、暮らしの息吹を感じるんですよね。だから、そうやって生き証人のような方とも道すがらに出会える。で、渋谷川には、都市を洪水から守るための排水インフラとしての機能があるので難しいよなと思いつつ、渋谷川で水遊びが出来たら楽しいだろうなとか、蛍が飛んだら素敵だなって思う気持ちは止められなかったんです。そういう歴史を知るにつれて、その可能性がゼロではないかもなと思えるんですよね。だから、まだ、その気持ちに蓋をしなくてよいなって。
-かつてそうだったってことは、これから、またそうなるかもしれないと思える。
はい。実際に「渋谷川の再生」が官民連携で進んだわけですしね。その再生というものの延長線上に、自分たちのこのプロジェクト位置づけている気持ちです。ちょっと格好つけた言い方なんですけど、再生の英訳のひとつにplayがあるじゃないですか。playって、「遊ぶ」でもあるし、「奏でる」でもある。
-ああ。
渋谷川への着目の基盤をつくったとも言える書籍で、田原光泰による「『春の小川』はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史」というものがあるんですね。2011年に出版されているんですが、そのなかで次のような一節があります。「都市を流れる川、流れてきた川とは何であろうかと思ってしまう。川の『フタ』をあけて清流を復活するという考えもあるが、その場合、復活すべき『川』とは何を指したらよいのであろうか」って。
-何をもって川とするのか。
はい。再生させたいものってなんだろうって。
渋谷川のほとりで出会ったヘビ(撮影:熊井晃史)
このあたりをすみかにしている2羽の鳩
GAKU(歓待としてのキュレーション実践場)。大切な思い出を話せば半額なる「ピクニックフリマ」も
そうなっているということは、誰かがそう努めてきたということ
建築や都市開発って、アクセルとブレーキを同時に踏むというか、とても矛盾するようなことを一挙にやってのけないといけないような仕事だなって思っているんです。
-矛盾。
必然性もあるんだけど、意外性もある。夢もあるんだけど、実現性もある。じゃないと、面白くならない。
-ああ。
「渋谷川の再生」というものは、その類のものだったように思いますし、渋谷ストリームの建築からも、それを感じるんですね。
-つくった人たちの創意工夫っていうことですか。
そう。社会学者の吉見俊哉という人がいて、その著作で若いときから学ばせていただいていたんですが、最近出された本で「東京裏返し 都心・再開発編」というものがあります。そこで、渋谷ストリームのデザインアーキテクト(意匠設計)を担当したシーラカンスアソシエイツの赤松佳珠子との対談が収録されていて、気になる発言が連なっていました。たとえば、広場に面して大階段があるじゃないですか。slow streamでも観客席的にも使われていますし、普段から、あそこでいろんな人がくつろいでいる場所になっていますけど…。広場と大階段との間に遮るものがなく、気持ちよく接続しているじゃないですか。
-あそこから、広場の様子をぼーっと眺めているのが好きです。あと、渋谷南口駅の改札を抜けて渋谷ストリームの館内をとおって大階段を降りて、slow streamの会場である広場に降り立つ感じが、いつもドラマチックです。
そうですよね。なにもしないでも居られる場所って貴重ですし、歩いていると景色が変化していくのも楽しいです。赤松さんの言葉をひくと「構造的に難しいと言われた大階段の柱も最終的には取ってもらって吹き抜けにしています」と。
-大階段に柱があったかもしれない!
そう。もしあそこに柱が立ち並んでいたら、slow streamの雰囲気も大きく変わっていたんじゃないかなと思いました。この発言は、吉見さんの渋谷ストリームは「外の風景とつながり、風や空気が流れ込んで」くるための「孔」があるという指摘、つまり隙間や余白は意識的に担保されているのか?という問いかけに対する返答だったのですが、このように続いていきます。「低層部は本当に隙間だらけの空間で、店舗はすべて通路のオープンテラスと一体で使える、路面店のようなしつらえです。渋谷はもともと、界隈性やストリート性が魅力の街ですから、いわゆる大規模再開発というよりは、こういう『孔』だらけで路地のような心地よい複雑さが必要ではないかと考えました」と。
-渋谷ストリームって、座れる場所がたくさんありますもんね。それも、お金を払わないでも座れる場所もたくさん。
そこも、今では珍しいつくりなんですよね。
だから居心地がよかったんだ。つくった時の人の想いを知ることってやっぱり大事
夢が埋め込まれている都市には力がある
自分が教育の仕事をしてきたからというのもあるんですが、つくることの次にある、育てていくことの方に関心が強いんです。それって、人に限らず、渋谷ストリームという建物だったり、再生を経た渋谷川というものもそうで…。
-街も、育てていくもの。
はい。ただ、育てるって言っても、人もそうであるように、当然思い通りにはならないわけですし、思い通りにしようとし過ぎるのも良くないのですが、とはいえ、そのときの想いのようなものは知っておきたいんです。やってお終いではないインベント。つくってお終いではない街づくり。そうであるためには、それが持っていた夢のようなものを、ちゃんと見たいんですよね。
-夢。
予測じゃなくて、希望として、こうあったらいいなっていう意志がちゃんと埋め込まれているものって、その是々非々はあれど、やっぱり良いものですよ。というか、それを感じられなくなったら、都市って終わりだよな、みたいな思っちゃうところがあるんですよね。そもそも、良くも悪くも、夢を見る場所でしょ、都市って。建築家のルイス・カーンも「都市とは、その通りを歩いているひとりの少年が、彼がいつの日かなりたいと思うものを感じとれる場所でなくてはならない(香山壽夫「ルイス・カーンとはだれか」より)」って言ってますけど、「ああなりたいなあ」とか「ああありたいな」って、思わせてくれる力が良い都市にはあるはずですよね。
渋谷ストリームは「孔」が空いているからいろんなところから色んな景色が楽しめる
heykazma
沖ちづる
wagamama books(アート古書とzine)
Re:store(reが付くもののお店)
GAKU(歓待としてのキュレーション実践場)にあった「越境文学サロン」の冊子
居たいと思える流れをどうにか力を合わせてつくる
どんな流れのなかに居たいのかって考えるし、居たいと思える流れをつくりたいとも考えるし…。
-鳥とか魚みたいですね。
ほんとそうで…。風も川も、流れ行くものだけど、どんな流れだったら身を預けたくなるのかなあとか良く考えてます。それって、風や川だけじゃなくて、歴史も人も、流れていくものじゃないですか。
-歴史も人も。
歴史の流れも踏まえないと、根無し草みたいになっちゃう。それで良い夢を描けるんだったら良いんですけど、そうもいかない気がして…。またしても、渋谷ストリームの成り立ちの話なんですが…。
-歴史の流れを踏まえるってことだとしても、渋谷ストリーム愛がすごいじゃないですか。
このプロジェクトを通して関わりも増えて、いろいろと知るにつれて愛着が増しているというのはあるんですが、それこそ流れのはずみで話題にだしたくなっちゃいました。先程の吉見さんの本でも分かりやすく解説されているのですが、「渋谷ストリームの中核となるコンセプトが、街の記憶の継承」なんですよね。「渋谷ストリームのデザインアーキテクト(意匠設計)を担当したシーラカンスアンドアソシエイツがプロジェクトの中軸としたのは、かつての東横線渋谷駅の記憶を残すことでした。渋谷ストリームには、渋谷駅の象徴だったホームのかまぼこ屋根がデザインされた空間、ビル内通路に埋め込まれた線路など、人々の記憶を呼び起こす仕掛けが施されています」と紹介されています。
-渋谷リバーストリートには、「旧並木橋駅」のホームが残されていたり、旧東横線の高架橋の一部も残されていますもんね。
残しながらつくるっていうことの工夫がよく見ると随所にありますよね。やっぱり、そういう工夫の流れの延長線上にあるものとして、slow streamを置いておきたいんです。その「残す」ための苦労というものについて、吉見さんとの会話の中で赤松さんは、こう回想されていました。「川沿いを含めたパブリックスペースには多くの規制が存在します。かまぼこ屋根がシンボルの旧東横線渋谷駅も、本来は国道上なので、これだけ幅広のデッキをひとつの私企業が占有することはできないんです。けれども、この架構は取り壊してしまったら二度と造れない、とても貴重なものだということと、何より高度経済成長期に渋谷という街の発展を支えてきた鉄道の線路と駅の記憶を絶対に消してはいけないという想いは、私たちも東急側も共通していました。東急が行政と粘り強く協議した結果、災害時の一時避難所としても使用するということでなんとか距離が下りました」って。
-人にも場所にも歴史あり、ですね。残されたものが今を生きるためには何が必要なんでしょうね。
アーカイブというよりも、ingがつくアーカイビングっていう感じで、活動そのものがアーカイブになるような取り組みのことを考えていくんだろうなって思います。
-アーカイビング。
書籍では触れられていませんでしたが、シーラカンスアンドアソシエイツを主宰していた建築家の故・小嶋一浩さんによる渋谷ストリーム設計時のスケッチなども、館内に展示されているんですね。そのスケッチを見ると、この大きな建物が、人の想像力で出来上がったんだなと感じられて、なんか良いんです。なによりも、建築家とディベロッパーの関係性のありようとして素敵だなと感じます。相互にリスペクトがあるっていうか。そういうのを含めて生きた教材として、建築を学ぶ学生を対象にツアーとかしてみたいですけどね。それも、ひとつのアーカイビングだと思います。
-素敵です。
ちょっと、どうしても触れておきたいんですが…。シーラカンスアンドアソシエイツの赤松さんと会えたんですよ、それも渋谷の酒場で。
-ええ。
えっと、Li-Poっていうお店が好きでちょくちょく行っていたんですね。どうやら、渋谷ストリームの敷地にもともとあって、それが渋谷川沿いに移転していたらしいんです。移転後のことしか知らないんですが、もう、自分にとっては、そのお店があるからそこに行くみたいな場所で…。slow streamのことも応援してくれていたんです。
-そういう行き着けができるの、良いですよね。
結構救われる感じもあったんですが、そのLi-Poのカウンターで呑んでいたら、ちょうど隣に赤松さんが座られて…。さらには、常連だったみたいで、オーナーの伊藤美恵子さんが引き合わせて紹介してくれるという…。
-わあ。
ひとりの建築家として、自分の仕事の敷地にあったBARに、その仕事が終わった後も通っているってめちゃくちゃかっこいいなって。伊藤さんも伊藤さんで、もともとは株式会社パルコでの音楽イベントの企画制作や映画の配給などを手掛けられていた人でめちゃくちゃかっこいいんですよ。
-さっきのルイス・カーンの良い都市とは「いつの日かなりたいと思うものを感じとれる場所でなくてはならない」じゃないですか。行ってみたいです。
もう年齢的にも大人になりましたけど、そういうインスピレーションが必要ですよね。今はもう実店舗での営業は終了しているんですが、自分の中ではまだすごい残っている風景です。
ウェルカムカウンターではウェルカムドリンクも。お困りごとや忘れ物などもこちらまで
田上碧
やりたい人が集まると始まる綱引き
お店の構えが持つ公共性と表現
店を構えるというのは、それだけで社会に対するステートメントみたいなところがあるなって思っているんですね。だから、お店ってある意味、表現だし、街と自分の間に立ってくれるかすがいのようでもある。オーナーの顔が見えるお店ほど、そんな感じがします。
-好きなお店があると、その場所のことも好きになります。
ですよね。シーラカンスアンドアソシエイツの赤松さんが、そういう感じで都市に寄与するお店の存在を担保するために建築的にしつらえた工夫についても語っていました。「川に面した一階部分は奥行きが一メートルぐらいしかなくて、『ショーケースにしかならない』と言われましたが、渋谷川を再生して人の流れを生むのであれば、やはり店舗が必要です。『花屋さんなら入れます』などど一生懸命図面を描いて、結果的にこのスペース全部に店舗を入れることができました。お店で買ったコーヒーやワインを片手に川辺のオープンスペースでくつろげるよう、飲み物などを置ける台も川べりに取りつけています」って。
-あー、あそこか!コーヒーやワインを片手にくつろいで川を眺めている人が増えたら、最高な景色な気がします。
そのための工夫があるし、そのためにも渋谷川が綺麗になったんだから、その工夫を活かして、渋谷川をもっと居心地良くしていったら良いよねって、すごい素直に思います。
-「人の流れ」って、みんながそこに行きたくなるってことですかね。
それもあるし、赤松さんの発言にもあったんですが「渋谷ストリームがある渋谷駅南側は246と首都高で分断されていて、どこか取り残されている感じがありました」ということだったんです。
-車のための道路で、歩行者の流れが絶たれていた。
はい。「ストリームは『流れ』で、川も人も交通もさまざまなことが行き交って流れていくということ」と言うように、渋谷川のほとりを歩きたくなる環境にしていって、渋谷・代官山・恵比寿という歩行者の流れを担保したいという想いがあったそうなんです。
渋谷川沿いのフィールドワーク的清掃活動。時には手を伸ばしてゴミを拾います。
蒸溜福飯店(せいろ蒸しと薬膳料理)
芝生の上で気持ちよく過ごしてくれたワンちゃん
豆豆豆花(台湾スイーツとドリンク)
koso mogumogu(野草や香草を使った食の自由研究)
流域的に考える
流れで考えるっていうのは、独り占めできないってことだなって思っていて…。
-え?
自分の眼の前のことだけを考えていれば良いってわけじゃないっていうか、だからこそ、助け合う必要があるっていうか。
-川で言うと、上流が汚れちゃったら下流もそうなるし、下流が汚れちゃったら上流に魚も上がってこないし、水源の山が荒れると川も枯れるみたいな話。
そうそうそう。そういうことを、進化生物学者のリチャード・ドーキンスによる「利己的な遺伝子」の翻訳家のひとりでもある岸由二という人が「流域思考」というコンセプトで展開していて、影響を受けています。
-流域思考!高校のときの先生から教えてもらっていました!
おお。岸さんの理論的な裏付けに圧倒もされるんですが、一方で「あまり難しく考えずに、まずは『流域単位で考えましょう、物事を捉えていきましょう』といったていどでいいと思います」「なんでもかんでも可能なものは、流域で考えたら面白いよ」といったスタンスが当面は正解なのだと思います」とも、言ってくれています(養老孟司、岸由二「環境を知るとはどういうことか 流域思考のすすめ」より)。
-面白いです。
それで言うと、新宿御苑内の池は、渋谷川の源流のひとつですし、渋谷川は、そこから信濃町、原宿、渋谷、恵比寿へと流れて、その後、東京湾に流れ着きます。なんですけど、その上流部分は、1964年の東京オリンピックのタイミングでそのほとんどは暗渠化された歴史を持ちます。
-slow streamでも、その源流を辿るウォーキングイベントがありましたよね。
そういう形で東京を体感する機会ってなかなかないですよね。岸さんは「流域思考とは何か」という書籍で、「海や山や川という『大地のでこぼこ』の『中に暮らす』というリアルな感覚を、わたしは育てたいのです。そんな暮らしの感覚、『住み場所のセンス』のようなものを育てる基本単位として思いつくのが、『流域』という自然のランドスケープ」と言います。
-渋谷川も、その舞台になりますかね!
そうあって欲しいし、そうあるために、仕事している気持ちがあります。
-はい!
広場の横を流れる渋谷川。川沿いを歩いて東京湾までいきたい
Wa?ste
Re:store(reが付くもののお店)
根を持ちたいという欲求が無視されている社会
-「住み場所のセンス」ってのも気になります。
実は、rooted hopeというコンセプトを考えていたときのリファレンスが色々とあるんですが、そのなかの一つに岸さんの本がありました。
-根づく感覚ということですか。
はい。いったんシモーヌ・ヴェイユという工場労働などにも従事していた哲学者を経由するんですけど、ヴェイユには、その名も「根をもつこと」という書籍があります。
-根「に」持つっていうとなんか嫌な感じがしますけど、根「を」持つっていうと安心感がありますね。
ああ、ほんとですね。面白い。そこでヴェイユは、「根を持つこと、それはおそらく人間の魂のもっとも重要な欲求であると同時に、もっとも無視をされている欲求である」と言っています。ヴェイユも、岸さんも、その「無視」をしない。
-重要だけど、無視されている欲求。
そう。続いて、それを「もっとも定義のむずかしい欲求のひとつ」としながらも、「人間は、過去のある種の富や未来へのある種の予感を生き生きといだいて存続する集団に、自然なかたちで参与することで、根をもつ」と言っています。
-過去の富や未来への予感!
さらには、「自然なかたちでの参与とは、場所、出生、職業、人間関係を介しておのずと実現される参与を意味する。人間は複数の根をもつことを欲する。自分が自然なかたちでかかわる複数の環境を介して、道徳的・知的・霊的な生の全体性なるものをうけとりたいと欲するのである」って。
-生の全体性!
母語のように獲得される「母地図」
-rooted hopeって、希望が根づいているという意味でもあるし、根づくことへの希望という意味もあったんですか?
多分そうなんだと思います。多分と言うのは、自分でも良く分かっていると言える気分ではなく、だからこそ、考えたいというか…。岸さんの「住み場所のセンス」で言うと、「流域思考とは何か」で次のようにも言っています。「人間は、信頼し、熟知し、親和して生きる〈すみ場所〉を選ぶ動物なのであり、おそらくは秘密基地やマイナーサブシステンスをともなう探索活動に強い愛をもって繰り出す少年少女期にの頃に、わたしたちには未知の学習プロセスを通して、なんらかの特性をそなえた空間を、愛を持って対応しケアする〈すみ場所〉と定める動物なのではないか」って。
-人間は、本来、場を愛してケアしたい動物。
なんだけど、その欲求がうまく発揮したり、機能する状況になっていない。とすると、人間にとっても、場にとっても、不幸せだよなと思うんですよね。それで、岸さんが言っていることを体感したくなって、彼が守り抜いた「小網代の森」という場所があるので行ってきたんですよ。森の川から湿地、干潟、海へと道路などで遮断されることなく連続的に残されているという場所で、関東で唯一だそうなんですね。で、行ったら、たまたま御本人もいらっしゃって…。
-スゴい。
スゴかったですし、光栄でありがたい時間を過ごせたんですけど…。はじめに獲得する言語体系のことを母語っていうじゃないですか。同じように「母地図」というものがあるって言うんです。母語を豊かに育むことがあるように、当然、母地図を豊かに育むということだって必要だよねって。
-ああ。地図って世界の捉え方ですもんね。
Jesus Weekend
茶酔(青空茶会)。野点気分でおかわり自由が嬉しい
DJ melody
アンブレラ・スピーシーズと生き物の賑わい
岸さんたちが保全し育んだ小網代という土地では、アカテガニというカニがキャラクターとして良く出てくるんですね。そのことを岸さんは「アカテガニに助けてもらった」と言っていたんですね。
-アカテガニに助けてもらう。
そのことは、「流域思考とは何か」のなかで、アンブレラ・スピーシーズという言葉でも解説されていました。いわく、「欧米の自然保護活動に、アンブレラ・スピーシーズ(雨傘種)という概念があります。保全をアピールしたい場所に一番深く広く依存する、印象的な生き物に登場してもらい、『その生きものがおもしろい、その生きものの暮らしを理解しましょう』とアピールして、地域のランドスケープの配置や、生態系の構造や価値をわかってもらう。その生き物の暮らしの拡がる地域を総合的に保全すれば、その『雨傘』の下で他の生物多様性も保全されるという考え方です」ということなんです。
-なるほど。
ちなみに岸さんは、生物多様性のことを「自然の賑わい」「生きものの賑わい」というふうに言うんです。
-楽しいです。
ねえ。よくまちづくりや都市開発では、「賑わいづくり」というワードが出てくるし、それが目的として語られているんですが、もう少し踏み込んで、じゃあ、それってどんな賑わいなの?という問いを重ねたほうが良いんじゃないかなとは思っていたんです。そうしたときに、渋谷川沿いでトンボとかミツバチとか草花とか、以前見つけたヘビとか、そういう存在も含めた賑わいづくりを目指すってなると、なんか楽しいなって。
-はい。楽しいです。そうなってくると、渋谷川におけるアンブレラ・スピーシーズってなんなんですかね。
んー、考えたくなりますよね。はからずもなんですが、「渋谷にヌシは可能か?」って、民俗学者の伊藤龍平先生と探求しているじゃないですか、つまり、そういうことを考えたかったのかもなって思ってきています。
-渋谷川におけるアンブレラ・スピーシーズはヌシ!!!
Spiral Club(渋谷川のほとりのビオトープ観察とオープンミーティング)
hina
自分が生きている世界の手触り感があるかどうか
ヴェイユが、「根をもつこと」で「道徳的・知的・霊的な生の全体性なるものをうけとりたいと欲する」としていたことや、岸さんの「母地図」みたいな話を反芻しながら、文化人類学者の岩田慶治という人が日本の合掌造りについてとりまとめた本に書いていた文章を頭に浮かんでいて…。ちょっと長いんですが、こんな感じです。想像しながら触れていくと面白いです。「合掌の家は子供たちにとってどれほどおもしろい遊び場であっただろうか。部屋から部屋への旅は、子供にとってはまさに探検であったに違いない。草を食って鼻をならす馬、ザワザワと音をたてて桑の葉を食う緑色の蚕、あやうげなキザハシを登ってゆくと、二階、三階には薄暗いガランとした空間がひろがっている。夏の日なかのあの一種特別な青くさい匂い、雪にうもれた冬の夜の底しれぬ静寂。そこにはいたるところに神秘があり、未知の領域があった。家族とともにある安らぎとともに、常に人間の手の届かない恐れと不安を感じたに違いない。合掌の家は、子供たちにとってまさに一つのミクロコスモスであったろう。この家のなかに、社会と自然と超自然とが縮小されて生き続けていたのである(文 岩田慶治、写真 安達浩「合掌造り―くらしと風土」より)」。
-社会と自然と超自然が生き続ける…。「おしいれのぼうけん」っていう絵本を思い出しました。
ああ、岩田が言うミクロコスモスの現代版の感覚かもしれませんね。それで、岩田は別の箇所で「伝統社会における家の文化が守り育ててきたものは、もう一度いえば、創造と享受、くらし方と味わい方の全体であった」とも言っています。
-創造と享受、くらし方と味わい方の全体…。
かつての風習の一部分を取り出して称揚しすぎるのもアレですけど、なんか、今、こういう感覚が求められているような気もしなくもないというか、惹かれる自分がいます。
-自分が生きている世界の手触り感があるというか…。
そんな感じがしますよね。これ、家の話だったんですけど、都市に話を置き換えても良いんじゃないかなとも思っていたんですね。特に、渋谷川のほとりには、寺社仏閣も多くって、歩くと大通りもあれば路地もあって、地形の変化に富んでいるし、ミクロコスモス感があります。岩田の言葉を借りて、都市が「創造と享受、くらし方と味わい方の全体」を守り育てるものだって言いたくなっちゃう。
-そうあって欲しい気もします。
Eq(E.O.U + vq)
茶酔(青空茶会)
wagamama books(アート古書とzine)
豆豆豆花(台湾スイーツとドリンク)
根を張るということは動かないということではない
-今回のrooted hopeというテーマのコンセプトテキストにあった「根を張るということは、やがて実をつけ、遠くにも届くということ」っていうのが、好きだったんですけど。
あれは、植物って根を張って動かない存在として思われがちだけど、根を張ることで実る果実が鳥を誘って、その実が遠くまで運ばれるようなことってあるよねみたいな会話をしていたんですよね。つまり、そういう動き方や広がり方があるっていう。
-はい。
にしても気がついたら今回もスゴい文量になっている気がしてきました…。そして、当初、触れようと思っていた内容に全然触れてない…。
-どういう予定だったんですか?
slow streamって実行委員会形式で運営していますが、メンバーの新陳代謝はしていくべきだし、なんなら、自分も新陳代謝されたいと思っているんですけど…。
-新陳代謝されたいって。
次はお任せくださいとかって、気持ちよく言われたい。
-あははは。
そういうある種の伝統というか持続的な仕組みにするために、がんばっているところがあります。そういう文化的な仕組があるところって、つまり人が育つ場所だよなって思うので。
-いつも言う、都市や文化の教育機能。
はい。で、今回、上妻森土さんがデザインを担うことでクリエイティブを一新したわけですが、なぜキービジュアルが羽根だったのか。新たにキュレーターとして加わった松村ひなたさんがrooted hopeというテーマの解釈のひとつとして「I’m rooting for you」というフレーズを念頭に置いていた話とか。まあ、トピックは今回も本当にたくさんあって…。一応、自分の中ではいろいろとつながっているんですが、そのどれにも触れずに、ここまで来てしまいました。なんですけど、なんかそれを今ここで、細かく説明するのも野暮だよなみたいな気持ちになってきちゃいました。
-そうですかね。「I’m rooting for you」っていう英語の慣用句、知らなかったです。
応援していますっていうニュアンスらしいんですが、直訳しちゃうと、あたなのために根を張るっていう感じなんですかね。それが、力になりたいみたいな感じになるのは面白いですよね。でもなんか確かに、力みたいなことは考え続けているんです。
SHIZKA
mieuxxx
宿し宿されている力
弁護士を経て、ダンサーや作家をされているキム・ウォニョンという方の本を最近熱心に読んでいまして…。で、キムさんは車椅子を使用されているんですが、そういったキムさんの生きてきた経験を綴ったもので、最近は「完全に平等で、非常に差別的な」という本が翻訳出版されています。是非、原著にあたってもらいたい気持ちもありつつ、そこから長めに紹介させてください。力と能力の違いだったり、誰もが持っているそういう力のようなものをどう捉えていくべきかっていう。
-力の捉え方。
えっと、「幼少期を、知的、文化的に豊かな環境で過ごすことは確かに重要だが、わたしの不満は『能力』にばかり目をむけていたことの結果だった」と始まります。で、わたしたちは誰しもその身体に、力を宿し宿されていると。
-「rooting for you」をし合っている。
そうそう。「ダンスや演劇の公演をし、あるいはワークショップに参加して身体を動かしながら他者の身体と出会う機会が増えるにつれ、幼いころから少しずつ自分の身体に蓄積されてきた『力』を自覚するようになった。難病を患うわたしを母や父、祖母を抱きかかえ、さすり、おぶって階段を上り下りするたびに、彼らはわたしの中に何かを残してくれた。ベートーベンの音楽をたしなむ人でなくとも、漢文学者でなくとも、ケアをする身体は自身よりも大きな『力』を、ケアを受ける身体に伝えるものだ。一〇代の半ばを過ごした特別支援学校で、わたしを含め障害のある生徒たちは、外国人の先生から外国語を習ったり美術館で絵を鑑賞したりしたことはなくとも、各自の身体の動かし方や話し方、独自の生活の営み方をお互いに受け入れいていた。階段や坂道だらけの一般高校で車椅子を押してくれた友人たちの身体は、わたしの身体のどこかに刻み込まれている。身体とともに生きていく以上、わたしたちの身体には常に、具体的な他人が宿っている」って言うんです。
-わたしたちの身体には常に、具体的な他人が宿っている。
そうしようとしていなくても、そもそも、そういうもんなんだという。目指すべきゴールだと思っていたものが実は前提だったんだみたいな感じがします。で、こう続きます。「その『力』は、どんな規範的議論や立派な理念よりも納得のいく、人間の平等に関する信念へとわたしを導いてくれる。ここで言う『力』は『能力』とは違い、具体的な個人の限界や可能性に縛られていない。『力』は普遍的で、個々人よりも大きい。『力』は能力の外にあって能力の前提となったり、能力に関する社会の尺度を覆したり再構成したりする。わたしたちは誰かの『能力』を前にしばしば挫折を味わうが、一方で誰かの『力』を目撃すると『より大きな世界につながる』という驚異的な体験をする。その理由がここにあるのだ」と。
-うう。
浮
Jesus Weekend
力を解き放ちたい
slow streamで言うと、たとえば音楽家の演奏を聞いていて、ああ、演奏が上手だなみたいなことって思わないんですけど、つまり、能力の次元で聴いているというよりも、キムさんが言う力のような次元で聴いているんですね。
-「誰かの『力』を目撃すると『より大きな世界につながる』という驚異的な体験をする」っていうこと。
多分、そういうことなんじゃないかなと思うんですね。さらには、その力というものが、どこから来て、どこに行くのかっていうことも考えたい気持ちがあるんです。
-力の出自と行方。
スタイリストの北村道子さんとお話をさせて頂く機会が叶い、(CINRA「『人間がなにをすべきかというと、それは掃除』世界を駆ける北村道子が10代に向けて語る都市と装い」にその模様の一部が収録されています)それも、とても刻まれるような経験だったんですけど、そのときに北村さんは、力を解き放つというニュアンスのことを繰り返しお話されているような印象を持ったんですね。たとえば、「暴力」というものについて、本来は「殴るとかじゃなくて、力を暴く」ことだと言うんです。
-力を暴く。
本来の力を解き放つこと。さらには、「そういう力をその場にちゃんと返納するんです」って。
-解き放った力を返納する。
そう。続けて、「分かんないけど、そういうことはやってみると意外といいよってさ、もう77年生きてて感じるわけ。まだ、みんな若いじゃないですか。そういうことを実際にしてないと思うんだよね。だから、生まれたからには、あなた次第よって言いたい。死ぬ時はエンジョイして死にたくない?」って、呼びかけてくれていました。
-押さえつけられているものが解き放たれて、そのあとまた返っていく。循環していく。
それが愉しいんだ、と。その北村さんとの対談は、「地球自体が球体じゃない?」「球体って言ったら、必ず戻ってくるんです。そういうことです」っていう北村さんのセリフで終えています。
田上碧
坂田律子
イルリメ
声なき存在のもっている力
根っこって、土の力を実に変えて世界に解き放ってる感じがするんですね。
-薬膳の世界でも、根っこが一番パワーがあるって、聞いたことがあります。
根っこは、土の力を暴いている…。北村さんが言う、そういう暴力にまつわる話を、文化人類学者の猪瀬浩平さんから教わったことを頭に浮かべながら反芻していたんです。このgood stremaのwebでも公開が叶ったんですが…(猪瀬浩平「ボランティアの文化人類学」)。誰かを思い通りにしようとするような支配的な暴力と、逆に、それを破壊する暴力があると。
-へえ。
ヴァルター・ベンヤミンという哲学者が、「神話的暴力」と「神的暴力」という言葉で整理をしているそうなんですが、曰く「神話的暴力っていうのが、法措定暴力と法維持暴力というものに分かれるんですけど、例えば、戦争で侵略をした国が侵略先の国のルールをつくったり領土を定めたりするのが、法措定暴力。その後、それを警察とかによって管理するというのが、法維持暴力。そのどちらも、つまり神話的暴力というものは歪んでいるっていうのがベンヤミンの問題意識で」ということなんです。で、「その上で出てくるのが神的暴力。そういった神話的暴力を根源的に破壊するものを、神的暴力って言うんです。ただ、その神的暴力が何でも壊していいっていう状態になると、それ自体が圧倒的な暴力としてヒエラルキーを生むことになるだけなので、ベンヤミンはそこから、その神的暴力が、要するに制度化しないためにはどうしたらいいのかっていうのを考えるんです」って。つまり、より良い社会を目指して権力者を倒したら、その倒した権力者のように自分がなっちゃったみたいなことは、どうやったら避けられるのかっていう。
-ええ。
「そういうときに大事なのは、いわゆる『サバルタン』とも呼ばれる、声なき存在のもっている力であるとベンヤミンは言うんです」と続いていくんです。
Spiral Club(渋谷川のほとりのビオトープ観察とオープンミーティング)
都市における「豊かな川」とはどんな姿をしているのか?を探求した、Spiral Clubによる冊子
あんどさきこ
あんどさきこさんを追いかけるまなざし
練習、実践、実験、経験
-声なき存在のもっている力。気になります。
ですよね。なんだかそういうことをずっと考えている気がします。考えているっていうか、練習しているというか、実践しているというか。それで言うと、福島真人という人の「『実験』とは何か:科学・社会・芸術から考える」を読み直しているんですが…。
-それにしても、いろんな本が出てきますねえ。
DJがレコードをつないでいくみたいに、本をつないでいく感じが頭にあるんです。で、practiceが練習という意味も実践という意味も両方持つように、実験と経験は一緒なんだっていうことなんです。「環境を厳密に統制し、自由度をひたすら小さくしながら、厳密な因果関係を確定する試み、という定義が我々がラボでの『実験』をイメージする時のプロトタイプに近い。(中略)『もう一つの実験』は、何かを具体的に試みてみるという、より緩いニュアンスをもったふるまいである。(中略)この『広い意味での実験』の感じを知るには、フランス語を見てみるといい。名詞レベルでは、フランス語には英語でいうexperiment(実験)とexperience(経験)の区別がなく、expérience(経験=実験)の語が基本的に使われる。まさに実験とはまずもって自分で経験することなのである」って。
-練習、実践、実験、経験。
もう、それって人生そのものですよね。続けて、福島さんは「それゆえここでの実験は、即興やインプロビゼーションと言ったニュアンスを持つ」と言うんです。今回、Eq(E.O.U + vq)の2人が3時間くらいのロングセッションを試みたじゃないですか。
-はい。
現場では、この2人は何に音をたむけようとしているんだろうかとか、お客さんはどんな感じで聴いているのかなとか、いろいろと頭に浮かぶものはあったものの、基本的にはアブストラクトな音に身を委ねながらぼ〜っとしていたんですよ。つまり、あれこれ考えないで済む時間をすごしていたというか。なんですけど、振り返りながらいろいろと考えさせられていた感じがあり…。福島さんが書いていたことを逆に言うと、環境を厳密に統制し“ない”で、自由度をひたすら小さくし“ない”で、厳密な因果関係を確定しようともし“ない”ということを積極的に選らんで行う試みがあるということだし、そのことの意味があるということじゃないですか。つまり、ああいうことだなって。
-Eq(E.O.U + vq)のお二人のロングセッションの様子がそうだったと。
はい。そこから、「環境を厳密に統制し“ない”で、自由度をひたすら小さくし“ない”で、厳密な因果関係を確定しようともし“ない”」という領域や瞬間を都市や社会に担保しておくのって大事だよなってやっぱり思いました。そもそも統制できないし、自由はなくならないし、因果関係って複雑。
-良い都市とは何か?
はい。その問いを巡って、いろいろとです…。アーティストやミュージシャンって、ある意味、世界観をつくるというか、一時的なものだとしても世界をつくるしごとだなとも思うんです。正確にいうと、みんながみんな、そういうはたらきをしているとも思っているんですけど、とにかくそうやって、根を下ろしたくなる世界をひとときでもつくれたら最高ですよね。
-練習!実践!実験!経験!
Eq(E.O.U + vq)
わなげボーボー(新世代アナログゲーム店)
渋谷川ほとりに咲く花
GAKU(歓待としてのキュレーション実践場)
歓待としてのキュレーション実践としてのピクニックフリマ
Re:store(reが付くもののお店)
あんどさきこ
川沿いの木に花が咲いていた
- 執筆
熊井晃史
- 写真
立山大貴
- 校正
丹野暁江、吉田七海統
- キャプション
菊池香帆