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田中元子「頼まれなくたってやっちゃうことこそがクリエイティブ」

これは、複合施設である渋谷キャストの7周年記念として制作し、無料配布をしてきた小冊子の本文をオンラインで公開するものです。2024年4月から、2年の時を経てなぜ今か。この社会全体に『good stream(良い流れ)』を生み出していきたい」とする、このshibuya good streamに多くの示唆を与えてくれるものであり、より良いアーカイブのあり方を模索したかったからです。

小冊子のタイトルテーマは、「頼まれなくたってやっちゃうことを祝う」。

周年記念とはいえ、何を記念すべきなのか。何を祝うべきなのか。その問いへの一つの応えがそれでした。また、ひとつの施設を越えて今の社会において、そのお祝い気分が広がっていくことを想うものでした。ただし、そのような気持ちだけが確信とも言えるもので、それ以外は暗中模索。「独りよがり」や「おせっかい」とは違うのか。同じなのか。手放しでお祝いして良いものなのか。色々と湧き出す逡巡を抱えたままのインタビューのプロセスをそのままにとりまとめています。

頼まれなくたってやっちゃうことこそが必要。これは、田中元子さんが様々な会議の場で、しばしば口に出される言葉でした。

「自家製の公共」「マイパブリック」「私設公民館」といったキーワードと活動を、もう何年も前から展開されてきた田中さん。どうなるかわからないけど踏み込んでみる。賭けてみる。そういった優しさや寛容性とも言える眼差しを周囲に向けつつ、いつもなにかをエンパワーメントし続けているようにも感じます。同時に、物事のスタート、そしてゴールがどうあるべきかというところに厳しい審美眼があることもうかがえます。ご本人に、この口癖を紐解くところからはじめてみたいと考えました。

左:田中元子 右:熊井晃史(shibuya good stream及び、そのコンセプトイベントshibuya slow streamのディレクターを務める)

喫茶ランドリー
2018年に墨田区の住宅街に「私設公民館」として誕生した「喫茶ランドリー」。コーヒーやお茶、軽食はもちろん、ランドリー(洗濯機)や大きめのテーブル、アイロンやミシン、お裁縫箱や編み物道具なども。まさに公民館のように、リビングとして、読書室として、 家事室として、工房として、そのときにしてみたいことができる場所。そして、「何もしたくない」という気持ちにもひらかれています。

田中元子「マイパブリックとグランドレベル」(晶文社)
「自家製の公共」づくりとして、「マイパブリック」という概念とともに、それが具現化されたプロジェクトを紹介。国内外の事例も紹介され、「1階づくりはまちづくり」ということが徹底的に「人の論理」であることを感じつつ、それが当たり前になる社会の方が圧倒的に居心地が良さそうに思えてきます。

田中元子「1階革命 − 私設公民館「喫茶ランドリー」とまちづくり」(晶文社)
2冊目となる新刊。「喫茶ランドリー」は、多くの共感を呼び、「理念のフランチャイズ」が進んでいます。そんな「喫茶ランドリー」のつくられ方を(惜しげもなく)解説しつつ、今回も国内外の事例が多数。誰もが思わず何かをやってみたくなる。そんな気持ちを後押ししてくれます。「あなたとわたしの地平である1階とは、どうなっていることが、よりよいでしょうか」というあとがきにある投げかけが頭から離れません。

それぞれが健やかに生きる

熊井:「頼まれなくてもやっちゃうことを祝う」。そういったフレーズって結構意識して発言されているんですかね?

田中:無意識かもしれないけど、そういうことを言っておかないと、「報酬を得る」っていうことだけに集中しちゃうようになる気がするんですね。

熊井:ああ。

田中:そもそも、そこだけが目的ではないじゃないですか。あくまで、この報酬っていうのはプロセスだし手段。仕事に向かうみんなで、そもそもの目的を見失わないように「頼まれなくてもやっちゃうことが大切」と言っているところがあるんですよね。

熊井:元子さんが言うところの目的って、もちろんその仕事ごとに設定した目標のようなものもあるかと思うんですが、さらにその先の、もう少し先の次元のお話をされていることもありますよね。

田中:そうね。私、基本的に全ての仕事が、「健やかに生きる」という目的に向かっているものだと思うし、そもそもそれが前提であるべきだと解釈しているんですね。なので、何て言うのかな、報酬を得たり期待に応えたりすること以上の目的がいつもあるよねって思ってる。

熊井:健やかな状態。

田中:うん。健やかさとは何かっていうとさ、外からのプレッシャーに応えていくようなこととは違うと思うんですよね。他の誰かの御用聞に徹するということじゃないじゃないですか。

熊井:御用聞。

田中:はい。私が、まちづくりとか、コミュニティに関わるような仕事をしているからかもしれないけど、他の人から有難うって言われることだけが目的になっちゃうことってあるんですよね。

熊井:ああ。

田中:で、そうやって言われているうちは良いんだけど、逆に言うと、褒められないとそこで辞めちゃう。

熊井:ああ。

田中:ありがとうって言われたり、褒められたりする。人のためになってるな。なんか良いことしたんだな。そういう手応えはやっぱり嬉しいじゃない。でも、そこだけじゃないんですよね。その人が「頼まれなくてもやっちゃうこと」っていうのは、その人の癖みたいなものでさ、それがあってこそのものだと思っているんです。例えばさ、会社の面接をして、新入社員として熊井さんを雇うとするじゃないですか。それで、熊井さんの癖とか個性を生かさないで成果を上げる仕事をしなさいって言われたとするじゃん。それって、面接はなんだったのって思う。

熊井:人として扱われてない感じがしますね。

田中:そう。その人と一緒にいたくて付き合うんでしょって思う。そういう属人性を塞いでね、誰かの期待に応え続けていくっていうことをやっていくことで生まれる皺寄せが嫌なんですよね。そもそも一人一人に癖のような「頼まれなくてもやっちゃうこと」があるということを前提に置いた方がよっぽど合理的って思うんです。

熊井:あえて価値という言葉を使うならば、それこそが価値の源泉のはずなのに、蓋をして「価値を創出しよう!」と号令をかけていることの矛盾ということですよね。

田中:ほんと、それ。

熊井:やや大袈裟な言葉になってしまうかもしれませんが、人の尊厳みたいなところを元子さんはウォッチし続けている感覚があります。

「共にあること」は追うと逃げる

田中:共感とか共創って言うように、「共にあること」が強調されるじゃないですか。でも、それを強調すればするほど、その「共にあること」から離れていくんですよね。そうじゃなくって、お互いに異物であることを喜ぼうよって。自分が異物であることにも、異物に触れることにも慣れようよって思う。予測通りになるという予定調和を面白がってばかりいることのさもしさってあると思うんですよ。それってつまり、人間の中にあるバグやエラーとか、一種の個性のようなものが悪いものになっちゃうじゃない。それってもはや、人間であることが駄目っていうことと一緒だからね。人間がバグを抱えている、この程度の存在であるということを祝福しないで、他に何を祝福するんだろうって。だからさ、「頼まれなくてもやっちゃうようなことを祝う」っていうのはさ、「ありのままで生きている状態であることを祝福する」ということでもあってさ、その方が、健やかで合理的って思っちゃうわけです。

熊井:ああ、まさにそういうことなのかもしれませんね。目的と手段みたいな話で言うと、他の誰かの目的に自分が依存するでもなく、他の誰かの目的の手段になるわけでもなく、自分自身の目的をそれぞれが全員バラバラに果たしていっている状態が「健やか」というもので、まさに「マイパブリック」という元子さんの言葉もそうであるように、それが結果的に公益性や公共性を持つみたいな話ですかね。

田中:そう思ってます。ひょっとしたら、「頼まれなくてもやっちゃうこと」がそんなに良いことばかりなのかという問いが飛んでくるかもしれないけど、人間同じ動物なんで、そう飛び抜けて嫌なことをいちいちやらないと私は思っている。

熊井:そこは今回、まさに考えていたところもありまして、何気ない会議室での元子さんの口癖でもある「頼まれなくてもやっちゃうこと」というものを、今回きちんと会議室の外で掲げた方が良いという確信はあったんですね。で、その外に出すという意味では、会議室の文脈から独り歩きするわけですから、それなりに想定問答のようなことを頭の中でするわけです。例えば、「頼まれなくてもやっちゃうことが犯罪行為だったらどうするんですか?」というもの。なんですけど、両手放しで無条件にこれさえ言っておけばオールオッケーみたいな言葉ってないので、むしろ大切なのは言葉の運用だったり解釈のはずなんですよね。

田中:そうね。

熊井:で、何かに似ているなと思ったら、公共空間にベンチを置くか置かないかといった論争の話で。「悪用とかイタズラとかされたらどうするんだ」「誰かが占有したらどうするんだ」「責任取れるのか」という声が上がったときに、運用面でカバーしましょうとかじゃなくて、じゃあもう辞めようとなる。何かを社会にどう委ねていくのか。人をどういう存在として見るか、見たいか。そこが問われていくんですよね。

田中:そうそうそう。盗まれたらどうする。イタズラされたらどうする。色々挙がるんだけど、どこにそんなモンスターがいるんですかと。みんなもちろんバラバラの個性があるんだけど、人間としてはある程度同じような存在でもあるはずですよね。全然、性善説とかじゃなくてさ、悪いことばかりの事例を挙げて何も動きがとれなくなることの極端さってやっぱりある。大体、もし仮に盗まれたとしたら、そこに解決すべき困りごとが見出されるかもしれないし、イタズラされたとしても、ああ街に遊べる場所が少なすぎるからどうにかするかみたいに次のビジョンが見えてくるかもしれない。運用とか解釈を豊かにしていくことが実際のところすごい大切なはずなんですよね。

熊井:そう思います。

田中:私は自由が好き、すごく。なんだけど、自由であればあるほどさ、大変なことになっちゃいませんか?みたいな話になって、自由か自由をなくすかの二択になっちゃうんですよね。そのどちらかを選ぶこと以外の選択肢ってあるはずじゃないですか。その中間に対する解像度を上げていきたいと思ってて。

熊井:そこがつまり、運用や解釈の話になってくるところですよね。

田中:そう。人間って、環境によってどっちにもうっかりなってしまう恐ろしさと面白さがあると思っていて、そういうもんなんだから、「頼まれなくてもやっちゃうこと」の個性のようなものに見慣れることができる社会の方が合理的なんじゃないかという考え方をするんです。

熊井:そういう社会であることを前提としたいのに、そうならないのは、例えば、つくることや生み出すことと、それを育てたり運営したりすることの繋がらなさというか、「しっかり運営していく」ということが話題にあまり上がらないという今の日本の社会状況にも似ていると思うんですよ。

田中:そうなんですよね。まちづくりの文脈で言うと、開発した後に運営という流れがあるとして、その開発ばっかりに注力されて、運営のところになかなか同じようにエネルギーがかけられない。自由か自由をなくすかの二択にしないためにも、みんなでしっかり運営していきましょうっていう選択肢が本当はあるんですよね。

うっかりの大切さ

熊井:そう思います。あと、元子さんが今ほどさらりと言われた「うっかり転じる」というフレーズも口癖として、もう10年15年前からリフレインされていると思うんですよね。

田中:それも口癖かもね。

熊井:そう。で、うっかり良い方にも悪い方にも転じてしまう。うっかり自分でも思ってもなかったような自分らしさが出てきちゃう。

田中:ひとまず、そもそもその「らしさ」が固定されたものだという幻想があるんですよね。あの人はああいう人っていうラベル。私なんて、ただただ明るい人って思われていたりするから、私が明るく振る舞うことをやたらと期待されたりもする。そういう期待ってもう呪いのようなものでさ。

熊井:「らしさ」を投げかけることが呪いに転じる。

田中:そうそうそう。私は、1日の中とかでも、気分も考えもどんどん変わっていくことがあるし、そういう矛盾も含めたものが自由であること、自由であることがその人の「らしさ」だと思ってるから。首尾一貫した完璧な存在じゃないでしょ、人間って。そもそも、私が建築好きになったきっかけが、「うっかり」だったから。

熊井:元子さんご自身が、うっかりで成り立っていると。

田中:18歳で家出同然で飛び出して、パチンコ屋とかでバイトして、立ち読みでうっかり建築の本を取っちゃったんですよ。建築には興味なかった、全然。グラフィックとかプロダクトデザインは好きだったんだけど、本屋さんにいくと、近い棚に並んでいたりしますよね。ふとかっこいいなと思って手にしたのが、スペインのカンポ・バエザっていう建築家の方の本。すごいぐっと来ちゃって、バイト先も、パチンコ屋から、建築専門ギャラリーの受付とか、環境設計のアシスタントとかそういう風に変えていったんですよ。

熊井:うっかりから、どんどん転じていく。

田中:「うっかり力」のような可能性って、ほとんど世の中で信じられていないような気がするんですよね。「自分らしさ」っていう呪いのようなもので、可能性が閉じちゃっている。学歴がないからできない。馬鹿には分からない。そういうことを、当の本人が思わされちゃってたりする。自分の興味や関心が、うっかり自由に動くことを許している社会の方が良いですよね。

熊井:「うっかり力」って、良いですね。そのうっかりの舞台が、街であって欲しい、街のグランドレベルの営みであって欲しいという。

田中:そういうことなんです。

熊井:やっぱり、今はいかにうっかりさせないか、ということの力学が強いような気がします。寄り道は許されない感じ。寄り道や道草は確かに危ないこともあるかもしれない、でも、危ないから寄り道はしないことにしましょうっていう方向性じゃなくて、寄り道がしやすい街や社会にしましょうっていう方がやっぱり豊かですよね。

学びの舞台はどこにあるのか

田中:そうそうそう。私さ、家庭も学校も全然居心地良くなかったし、どこで学んだかというと、もう全部としか言いようがないんですよね。

熊井:全部。

田中:そう。小学校低学年のときに、社会科のレポートでね、街で働いてる大人にインタビューして、レポート作っていきなさいっていうのがあったんですけど、私さ、周りが田んぼばっかりでさ、それで見かけた知らないおじさんに勇気出して声かけたんですね。そしたら「うー」って言われて、驚いて怖くなって逃げたの。それで、後から聞いたら、その方は耳も聞こえないし口もきけない人だった。

熊井:ああ。

田中:それでさ、やっぱり見慣れていないと怖いって感じちゃうんだなって思った。要するに差別とかヘイトとかもさ、慣れてないから弾きたくなるっていう。人間って、生まれたときから意地悪な人はいないと思うんですよ、でも、恐怖とか警戒心から偏見が仕上がっていくでしょう。あの体験が、私にとっての教育だった。学校がそういう課題を与えてくれたっていうのもあるけど、どこでもいつでも、もう生きてる間の全部が教育じゃんって。だから、私はせめて街の1階で、うっかりいろんな人を見かけることが当たり前になっていくといいなと思ってる。それってさ、多様性を学びましょうっていうことを目的にして、わざわざ私が出会った方のところに出向いてみんなで学びましょうっていうこととは全然違うじゃないですか。

「偶発性教育」

熊井:そうなんですよね。哲学者の鶴見俊輔が「子どもと大人の関係というのは、もっともうまくいった場合、理想として、その偶発性教育であること」って言っていて、まさにそうだな、と。

田中:ほんと、そう。

熊井:つまりその「偶発性教育」のようなものがたくさん起こる街や社会であって欲しいということじゃないですか。学ぶ側が学ばされているという意識を持たないで済む。教えている側が教えているという意識を持たないで済む。で、これって、「気遣い」と同じような話で、気遣いに上級というものがあるならば、それは、多分相手が気遣われていることに気が付かない。なんなら、気遣いしている方も、気遣いをしていることを忘れている。

田中:笑。

熊井:そうなってくると、もはや「気遣い」がほとんど魔法使いのようにも思えてきます。

田中:笑。

熊井:いや、で、元子さんの仕事にはそういうところがあり、その仕事が色々な人の色々な行動を後押しするための補助線になっているんだけど、その線がひかれていることを意識させない。

田中:それは、そうね。

熊井:様々な状況にうまいこと埋め込まれているので、それは感謝されづらい。ビジネスケースに乗りづらい。

田中:笑。でも、そこが本当に大切なところなんですよね。

隷属してない、させてない。それを祝う

熊井:その次元の仕事ってあるんだと思うんですよね。その上でなんですが、人の能動性が発露される瞬間っていうのが、ある種すごく美しいものというか、喜べるものとして、やっぱり元子さんの中で強くある。

田中:どなたも、私も、誰の支配下でもないということ。誰の奴隷でもない状態っていうのを祝福してるわけですよ。

熊井:自由であることを。

田中:そうそう。たとえば人間は、重力の奴隷かもしれないし、酸素の奴隷かもしれないけど、でも、自分の感覚とか、うっかり受け止めているいろんな影響を受けて仕上がってしまったものがありつつ、もう誰の強制力も働いてない状態は自由。だから、お互いに自由でいられるということは、私にとっては祝福の対象なんです。

熊井:非常に腹に落ちるものがあります。人間関係において主従関係だったり隷属関係のようなものだったりを徹底的になくしていこうよ、という。

田中:そういうことなんです。

目的が外部に依存しているということ

熊井:冒頭に、目的を見失わないようにという話が挙がりましたが、目的という言葉を使うならば、自分自身の目的を外部に依存し過ぎるのもマズいよね、ということになってくるなと。その依存関係は容易にヒエラルキーを生んでしまう。

田中:そうそう。SDGsもそうなんですけど、わかりやすい目的が掲げられると、それに依存してしまいがち。

熊井:鬼の首をとったかのように、水戸黄門の印籠みたいに、これさえ掲げれば許されるみたいに使われるのはやっぱり違うよな、と。

田中:やっぱりさ、自分で悩みながら出てきた目的みたいなものって、個人の責任にちゃんと紐づいているじゃないですか。そこに逡巡がちゃんとある。でも、そうじゃない場合は、自分の言葉じゃないからこそ、ある意味無責任になれるから、強くなれる。

熊井:ああ、自分の正体を晒さなくて済むから、強くなれる。

田中:そうそうそう。

存在を祝う

熊井:「祝う」ということが、そもそもどのようなことかっていう話になって来るかもしれませんが、以前、「喜び合う」というフレーズに重みを感じる形でお話されていたのも印象的でした。

田中:あー、はい。そうですね。祝福って、本当に心から喜べることだと思うから、自由であることをお互いに祝福できたら良いじゃないですか。なのに、結構みんながみんな喜び下手なんだと思います。例えば、完全に美しくないと喜べない、完全に正しくうまくいかないと喜べないとか。でもさ、他人様はやっぱ自分の脳みそを超えた存在じゃないですか。

熊井:はい。

田中:せっかく生きてたら、やっぱり、そこに気が付けたり喜べたりする方が楽しいでしょう。

熊井:そう思います。

田中:そこに気が付いていたら、もっとそれを味わって喜び合えるはずなんですよね。

熊井:ああ。例えば、赤ちゃんって、うんちをしたら、「うんち出たねー!」って喜ばれますよね。

田中:本当にそれ。赤ちゃんが泣いているとさ、うるさいってなっちゃう人いるけど、赤ちゃんもさ自分自身の身体能力を確認しているかもしれないじゃない。自分の体からこんな声が出るんだ、こんなに空気を震わせることができるんだって、手探りしながら自分でも驚いているかもしれない。こちら側からは想像もできないくらいの試行錯誤や工夫があるのかもしれない。私は、そういうことが好きなんだろうと思うんですよね。大人だって、そういうふうにして、世界を味わっているはずですし、そうありたいですよね。

熊井:ああ、生きていることそのものを祝うというか、よくこの世に存在しているね!ってお互いに祝う感じがありますね。フリーコーヒーという形で、街なかで屋台をひいてコーヒーを振る舞っているのは、道ゆく人にそれをしているところがある。

田中:あるある。よくこの東京砂漠でサバイブしてるね!って。

「頼まれなくてもやっちゃうこと」こそがクリエイティブ

熊井:「頼まれなくてもやっちゃうことを祝う」って、それこそ頼まれているわけではないんですけど、応援メッセージのような響きもあるなって思っているんですね。

田中:だってさ、「頼まれなくてもやっちゃうこと」だけがクリエイティブって言っても良いですからね。

熊井:うわ。言われてみると、ほんとそうなんですよね。人知れず、そこに向き合っている方々、特に若い方々にこの冊子を読んでもらいたい気持ちもあります。

田中:いやなんかさ、私が若いときと言うとさもう何十年も前なんだけど、就職しなきゃ死ぬんじゃないか、進学しないと死ぬんじゃないかって、たくさん言われてきたけど、大人になってみると、良いか悪いかは別としても死なないということはわかった。脅されていたんじゃないかと振り返って思います。

熊井:社会はそんな甘くないぞとかってすごい言われますよね。

田中:そうそうそう。お前のために言うんだ。社会はそんなに甘くないぞ。もし、そういうフレーズがあったとする。これね、ほとんど、そのように思い込ませて支配したいんだって言ってることと同じだと思うんです。それか、自分もそういう風に自由に生きていきたかったという気持ちが燻っているのかもしれない。

熊井:ああ。

田中:正しいかどうかって問われるとモヤモヤしてくるのはそりゃそうだと思うんだけど、「頼まれなくてもやっちゃうこと」って、基本的にはモヤモヤしないで済むものでしょう。あなたは本当にそう思うの?と問われても、もうそういうもんだとしか言えない強さがそこにあるじゃない。

熊井:本人にとっての、ときに切実さが伴う必然性があるんですよね。

田中:なんかさ、直感とか想像とかって、すごく主観的でさ、馬鹿にされがちだけどさ。でも、その人が生きてきたさ、経験値の集積であってさ、論理的に言語化できるものっていうのは、その集積のうちのわずかじゃないですか。社会的な正しさと言ったときに誰かにとっての都合の良い正しさを押し付けられてるんじゃないかなって警戒心が常にある。

熊井:今じゃ、フリーコーヒーみたいのって当たり前になりつつありますけど、元子さんはそれこそ「誰からも頼まれていない」のにコーヒーを街なかで振る舞いまくった結果、そこから新しい関係性が生まれたりとか、活動が生まれていくっていう。

田中:いや、本当にコロナでさあ、不要不急の外出はってワード聞いたときに、私って不要不急の塊だったんだって本当に思った。フリーコーヒーも、人様が社会がどうかっていうことよりも、そういうことをしてみたら誰がどんな顔するだろうっていう、まだ開いてない扉を見つけちゃったから、それを開けてみないと気が済まなくなっちゃったんですよね。

熊井:好奇心に近いんですかね。

田中:コーヒーを振る舞っているとさ、一見お金に縁がなさそうな人が幸せそうだったりとか、裕福そうな人がしんどそうだったりとか、色々ある。まさに「頼まれなくてもやっちゃうこと」でいうと、コーヒーをもらってくれる人が色々とお話をしてくれることが本当に面白かった。こちらから問わなくても、そういう話が始まる。本当に面白いなあっていう一方で、この話はこの方が何十年と生きている中で、1回も人に聞かれなかった話だろうと思うときもあった。

熊井:ああ。

田中:それがきっとこの人の宝物なんだろうなって思える話ばかり。贅沢ですよ。素晴らしいんだって、本当に。

熊井:他の人が大切にしているものを、それに共感とか理解が及ぶかどうかの前に、まずは大切にし合えるという受け取り方がしっかりできているということですよね。

田中:それが、冒頭でお話した「健やかに生きる」という状態なんですよね。

熊井:ああ。

田中:それがちゃんとできていたら、そうそう変なことって起きないはずなんですよね。

熊井:そんな気がしてきました。

田中:もうさ、おそらく一生喋りもしなかった人と時間と場所をともにしてさ、その方が思わずのびのび話しているさまを見ることができる。本当に贅沢なものなんですよ。「頼まれなくてもやっちゃう」っていうのは、その人が内側ですごく正直だってこと。そのさ、底からの正直な部分が好きなのかもね。なので、「頼まれなくてもやっちゃうことを祝う」ということは、その正直さを祝おうって話ですよね。

企画/聞き手/執筆編集

熊井晃史

冊子デザイン/撮影

上妻森土

校正

日比楽那

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