shibuya slow stream vol.22「越境挨拶」 ふりかえり考察トーク
イベントを実施して、おしまい。それは、「ビルを作っておしまい」の街づくりとどこか似てきます。shibuya slow streamは、そうであってはなりません。企画や準備に心を費やして迎えつつ、その成果をどうやって積み重ねていけるか!?というところが大事なはず。というわけで、心に留めておいたり、次に活かしていくための手応えや感触って何だったの!?それを一同でふりかえって考察していく時間も大切にしています。ここでは、その一部を当日の様子とともにご紹介します。
今回のテーマ:「越境挨拶」
あちらと、こちら。そちらと、あちら。異なるところに橋がかかって生まれる、新たな流れ。良い都市とは、その橋のような挨拶が交わされる場所であるような気がします。異なるもの同士がすれ違うときに生まれる、ハイタッチのような越境挨拶。ちょっと浮かれているようだけど、結構、切実な越境挨拶。そんな気分の音楽やフードやドリンクや遊びが集まります。子どもも、大人も、ペットも大歓迎。ぜひ、足をお運びください。
「越境挨拶」という切実な願い
-今回も、1日目が雨天のため泣く泣く中止になっちゃいましたね。
なっちゃいましたね。色々、ありますよね。色々とあるので、このレポーティングも随分と時間が経ってしまいました。少しずつ書いてはいたんですが…。
-プロジェクトのディレクションや企画や運営のことなど、アレコレやりながらの執筆ですもんね。
そのアレコレは大事だし、現場にいると、やっぱり見えてくるものはあるし、伝わったらいいなってことはたくさんありますからね。関わったり訪れたりしてくれる方への感謝の気持ちもたくさん募るので、突き動かされるように書く気になります。ただ、どうにも色々と…。
-あははははは…。それにしても「越境挨拶」が本当にたくさん起こっていましたよね!
ねえ。slow streamって、そもそも挨拶がたくさん交わされている取り組みであるようにも感じていたんですね。やっぱり広場なので、たまたま通り過ぎて足を止めてくださる方も多いし。そうしたら挨拶チャンスってなる。
-それで話が弾んだり、ずっと居てくださる方も多いですよね。
嬉しいですよね。それこそ、そういうことが起こる都市って良い都市だなって感じしませんか?
-します、します。
ですよねえ。小学校の頃に、校長先生とかが挨拶の大切さを説いていたときにはぜんぜんピンと来てなかったですけど、今更噛み締めているという。
-「異なるもの同士がすれ違うときに生まれる、ハイタッチのような越境挨拶。ちょっと浮かれているようだけど、結構、切実な越境挨拶」って、コンセプトステートメントにありましたけど、「切実」ってことですか?
いやーだって、今の社会状況を踏まえると、異なる背景を持つ人同士が異なったまま、同じ時間と空間を共にすることの大切さって、めちゃくちゃ切実なテーマだなって思ってたんですよね。都市って、人が集まる場じゃないですか。その集まり方に可能性や希望を見出さないことには、やってられなくないですか。重苦しくなる気持ちに、一生懸命に浮力を加えて、軽やかにしているようなところが結構あります。
-「敷居を低くしたいけど、奥行きを大切にしたい」というやつですよね。
ですし、軽いものには重力をつけて重しを、重いものには浮力をつけて軽やかに、みたいなことをいつもやっている気がします。「軽い」と「軽やか」は違うし、「重い」と「重み」も違うし。
-面白い感覚!
今、なんか色々とあべこべなんですよ。重みがあるべきところが軽いし、軽やかであるべきところが重いし。
会場の稲荷橋広場
渋谷川をぐるっと一周、ゴミ拾い。同日開催されていた「リバーパーク」で遊んでいた子どもたちとおしるこちゃん
既に常にある「越境挨拶」
良い都市とは何か?を問い続け、応え続けていきたい。そのための語彙を豊かにしていきたい。それが、slow streamの想いじゃないですか。それもあって、毎回テーマを変えている。
-毎回考えるの大変じゃないんですか?
そうなんですけど、それぞれのテーマは既に常に、現場で起こっているんですよ。越境的な挨拶という営みも、既に常にあった。全く何もないところから無理くりに考えているんじゃないんですよね。ただ、あるんだけども見えづらかったり聞こえてきづらかったりするものを、立ち上がらせたり、膨らましたいという気持ちはあります。
-今回広がっていた「越境挨拶」が、いつもの景色になったら素敵ですもんね。
そうそう。それにしても、DJ体験コーナーをやってくださったりしている、おしるこちゃんもまさにそれを体現してくれていて…。
-エスカレーターからこちらを観ている方たちに、手を振ってね。そうしたら、みんな嬉しそうに振り返してくれて…。子どもの頃って、消防車とか電車の運転手さんにそうやってたなって思い出しました。
心のハイタッチですよね。そういうコミュニケーションはやっぱり嬉しいですよね。
-おしるこちゃんってアイドルみたいですし、越境的な存在ですし、凄いです。
DJの枠組みを越えた存在ですよね。ですし、まあ、みんなそれぞれに、そもそも越境的な存在なはずなんですよね。
-え?
会社員をしながらミュージシャンをしているとかもそうですけど、誰かの息子であると同時に誰かの父でもあるみたいな話もそうだし、大人のなかに子ども心はあるし子どものなかにも大人心もあるし。立場や年齢や性別を知ったからといって、その人のことを知ったことにはならないじゃないですか。本来、人って、いろんな立場や顔を持つ越境的な存在なはずだから。
-ええ、はい。
で、そういうそれぞれの生きている時間や気持ちを持ち寄ってできあがるものを、お祭りだったり、催し物だったり、イベントだったりという名前って呼んでいるということで、そういうことを考えると、いつも不思議な気持ちになるんです。
-たまたま通り過ぎた方も含めて、意識してもしていなくても、みんなで持ち寄ってできている。
そう。そういうことをいつも言っている気がするので、今回は音楽と都市みたいなところの切り口で少し考察を進めていこうかと。
エスカレーターから広場を観ている方たちと、手を振り合う瞬間。なんだかなつかしい気持ちになります。
おしるこちゃんのDJ体験。広場の前をたまたま通り過ぎても、気軽に参加できるものがたくさん
おしるこちゃんのDJ体験は、広場で音を奏でる不思議な達成感があります
広場で音楽が巡る場がつくられるということ
クリストファー・スモールの「ミュージッキング―音楽は〈行為〉である」という書籍は、「都市はわたしたちのダンスフロア」を主宰する阿久根聡子さんや、その阿久根さんが慕うロンドンの音楽ジャーナリストのエマ・ウォーレンさんが矜持にしているようなものなんですが、よく引用されている一説に次のようなものがあります。「『音楽する トゥー・ミュージック』とは、どんな立場からであれ音楽的なパフォーマンスに参加することであり。これには演奏することも聴くことも、リハーサルや練習も、パフォーマンスのための素材を提供すること(つまり作曲)も、ダンスも含まれる。私たちはこれに、チケットのもぎりや、ピアノやドラムのような重たい楽器を動かすたくましい男たち、はたまた楽器をセットアップしたりサウンドチェックするローディーたち、それから、パフォーマンスの場から人がはけた後で活躍する掃除夫を含めることすらできる。なぜなら、かれらも音楽パフォーマンスという出来事に、本来、貢献しているからだ。」
-音楽という場は、たくさんの人が支えているはずだよねっていうことですか?
そうですし、聴衆のあり様についても話が展開されているんです。「私はあるコンサートで、ある女性がブレスレットの飾りをチリンと鳴らしてしまっただけで、隣に座っていた別の客が大いに怒った瞬間に出くわしたことがある。となると、『コンサートにいる私たち』は、参加者というよりもむしろ傍観者(スペクテイター)に近い。演奏中の静寂は、自分たちのためにアレンジされた見世物(スペクタクル)をじっと見つめるだけで、パフォーマンス自体には何の貢献もできないということを物語っている」と。
-音楽を聴くという行為が参加者というよりも、傍観者。ただ「見つめているだけ」かあ。
スモールは、さらに続けてこう批判します。「その見世物は私たちのものではないし、私たちとその見世物制作者(作曲家、オーケストラ、指揮者、裏方の人たち)との間にある関係は、消費者と生産者の間にある関係と同じものである。私たちにできることはふつうの消費者と同じで、買うか買わないかを決めることだけなのだ」って。
-「私たちのものではない」し、「買うか買わないかを決めることだけ」かあ。うーん。
音楽を作品というモノとして考えると、それ以外は余計なノイズになっちゃうというね。ただ、コンサートホールではなく広場というslow streamのロケーションを考えると、話が変わってくるなと思うんですね。渋谷のど真ん中ということもあって、まったくの無音ということが不可能。最初からもうノイズで溢れているんですよね。「じっと見つめる」以外にも、ご飯を食べたり、お酒を呑んだりして、子どもたちも遊び始めたりして、いろんな過ごし方が生まれちゃう。でも、全体としては、音楽と共にある。その過ごし方そのものが、それぞれの二次創作的になっていく。
-それぞれの二次創作?
音楽で身体を揺らしたり、踊ったり。なんとなくそういう気配を感じながら遊んだり、シャボン玉を飛ばしたり。そこで奏でられている音が一次創作だとしたら、そういう営みそのものが二次創作で、つまり、みんなで場を創作していることになるよねって。
-んー、なるほど。
もう少し踏み込むとですね…。車椅子を利用されている方が毎回来てくれているじゃないですか、すごい素直に、もっと居やすい状況にするためには!?って、そうやって訪れてくださる方の存在によって、より考えたくなるし、考えないといけない。そういう影響をこちらに与えてくれているんですよね。それも、一つの場への参加のあり方だよなって思います。
-「私たちのもの」にしていくって、そういうことなのかもしれませんよね。
ねえ。
Le Makeup
pottmann
空間演出は1/16
広場的であるということ
つまり、目的が単一的な場所って、それ以外の行為が望まれないものになってしまう。だからこそ、広場的な多様な行為が受容される場が本来持っている寛容性や可能性があるよねということなんですけど、それは非常に重要な議論だなと思うんですね。
-どちらも重要だけど、今の社会の中でそういう広場的な場所が少ないということですよね?
都心だと、とくにそういう気がしますよね。そういうことの重要性を、世界中のアクティビストに影響を与え続けている文筆家のレベッカ・ソルニットが「暗闇の中の希望:語られない歴史、手つかずの可能性」という書籍の中で、世界を劇場として見るか、或いは広場として見るか、みたいな議論を展開しています。ちょっと長いんですが引用します。「世界を劇場としてイメージしよう。舞台の中心を占めているのは権力者や公のお芝居だ。伝統的な『歴史』として語られるお話。変わり映えのしないニュース発信者に促されるままに、私たちの視線はその舞台に釘付けになっている。まぶしいスポットライトのせいで周りの暗がりはまったく見えない。客席の人と目を合わせることも難しい。客席を抜け出して、廊下に出て、舞台裏や劇場の外へ、暗闇の中へ、そんな別の力が蠢いている場所へ辿りつく道も見えない。世界の命運の大部分は舞台の上で、スポットライトの中で決定される。舞台の役者たちは、そこにあるものがすべて、ほかの場所はないと語りかけている」ということなんです。
-slow streamでもこういう議論が良く出ますよね。
ああ、場へのこだわりというか倫理観というか美学ですよね。キュレーターの宮﨑くんはそういう非中心性を担保するという理想を実体化するために、会場の椅子などの什器の位置調整に余念がないですしね。ちなみに、傍観者でしかいることができないような社会になっちゃうじゃんみたいなことを徹底的に批評したり実践していたシチュアシオニスト・インターナショナルという国際的な前衛芸術グループがいまして、その中心人物が1967年に出版した書籍がその名も「スペクタクルの社会」なんですね。それは、その後のパンクカルチャーに強い影響を与えたと言われています。この書籍に出てくるキーワードが、「日常生活の革命」「都市空間の解放」「遊びとしての生」。
-ワオ。
Σ°))))∈
Σ°))))∈のメンバーのよだまりえの古道具さん「風のひと、」
岩井彩映子のネイルワークショップ
わなげボーボーの景品群は圧巻
都市文化は記述できるのか?
それでまあ、話が少し戻るんですが、スモールがミュージッキングという概念について説明しているなかで印象的だったのが「これは記述のための言葉であって規範的な言葉でない」と強調しているということだったんです。
-ほえ。
どういうミュージッキングが良いとか悪いとか優劣をつけるためのものではなくて、起こっている現象を、起こっているものとして現すための記述のための言葉という。
-魔法みたいですね。
音楽もそうだけど、言葉ってそういうところがありますよね。それで、その記述ということが、文学的な表現としての問題というよりも、都市文化やそれを育むための施策として欠かせないよねという話が、シェイン・シャピロの「ミュージックシティで暮らそう:音楽エコシステムと新たな都市政策」で具体的に紹介されていて、より説得的に響いたんです。
-音楽エコシステムと都市政策!
えっと、「政策の対象となる特定の枠がない限り、対象は政策によって保護されることがない。2005年から2015年の間に3割もの演奏会場が廃業した英国の音楽業界の苦境を受け、2015年に慈善信託団体の『Music Venue Trust』が『Grassroots Music Venue』(草の根音楽ベニュー)という用語を定義した。(中略)英国では特に危機に瀕していたのは、そのなかでも週に3、4回のコンサートを行う中小規模のベニューだった。そうした会場を言い表すことばや定義が存在しなかったために、支援政策を発動することもできずに英国政府は問題をなおざりにした。ところが、いったんそれにことばが与えられ、枠が定義されると、そこから変化が起き、中小規模のベニューを保護すべく建築法が改正されることとなった。政策を起案するために必要不可欠なのは、ことばであり、定義だ。それなくしては、問題を特定し解決するための枠組みを存在させることができない」ということなんです。
-「草の根音楽ベニュー」という言葉が生まれたことによって、育まれた社会的な動きがあったと。
そう、なるほどなってなりました。色々と考えてみると、確かにあるんだけど、記述を通した説明がないと社会的には無いことにされちゃうことって、まあ、結構いっぱいある気がします。言葉にできないものを大切にするためにも、だからこそ言葉を大切にするみたいな感じがやっぱり、ある。
エマーソン北村
同じ日に出演されたエマーソン北村とくまちゃんシールがセッションしてくれました!
くまちゃんシール
希望としての「軽やかな子どもの耳」
slow streamがどういう場であるべきか?という問いは、ほとんど、都市はどうあるべきか?みたいな話になってくるなって思ってて、というかそうすべきだよなっていう。それでそれを、音楽という切り口で考えたときに、ここまでの話をふりかえりつつなんですが、来てくれた人をどう捉えるか?だよなって。
-お客さんの捉え方。
消費者なのか、聴衆なのか、参加者なのか、仲間なのか。
-買ってくれたらもちろん嬉しいですけど、それだけでもないので、全部って感じですよね。
そうそう、まさに、どれか一つに固定しているものでもないなって。それで、そもそも「音楽を聴く」という営みってなんだっけ?って思って、渡辺裕の「聴衆の誕生:ポスト・モダン時代の音楽文化」を読み進めていたんです。
-本をすぐ読みますねえ。
なんか調べないと気がすまないというか、ジグザク道だとしても核心に迫りたいんですよね。この書籍では、音楽は集中して静かに聴くものだっていうものが決して普遍的なものでもなく、近代以降に西洋で形作られた習慣の一つだよね、っていうことが論考されてまして。「十九世紀の音楽は、完成度の高さを求める『本物』志向によって、『エリート化』への道を歩み、徐々に『底辺の大衆』の『参加の愉しみ』を人々から奪い取ってゆくことになったのではないか。音楽とはしかめつららしい顔をして作品を『精神的』に鑑賞するものだ、という『高級音楽』の美学一式に塗り固められることによって、人々は一段高いステージで『プロ』によって演奏されている完成された音楽を、そこから隔てられた客席でうやうやしく鑑賞することを強いられ、下手でもいいから一緒に参加するという体験を失ってしまっていたのではないか」と指摘しているんです。
-失われた参加体験!ここまでの話ともつながってきますね。
雑多な広場のなかで活動しているslow streamとしては、重要な歴史観であるように思います。初版は1989年の書籍なんですが、「軽やかな聴取」が生まれているとされていて、それが「子ども耳」と重ねれられて希望を託されているんです。
-軽やかな聴取!?子どもの耳!?希望!?
それを表しているものとして、作曲家のアルヴィン・ルシエのフィールドレコーディング作品への言葉が紹介されています。「これは人々が小さな子供のときに、海辺で貝殻を拾い上げて耳にあて、海の音を聴いた、そんな体験の延長にほかならないのです。人々はそこでやめてしまいます。大きくなるとそんなことはしなくなってしまうのです。(中略)私がしようとしているのは、人々が再び貝殻を拾い上げて耳にあて、海の音を聴くのをお手伝いすることだと思うのです」って。
-ああ、それは、確かに希望ですね。そうなったら嬉しいです。子どもたちは世界にちゃんと驚けていて凄いですよね。
子どもって、どんどん越境していきますしね。
ayU tokiO
スパイラルクラブのビオトープ
スパイラルクラブのビオトープ。ビオトープを介して会話が生まれます
∞不思議屋∞
comominocoさんの帽子
slow streamでもお馴染みになってきた、綱引き
ロッキンチェアのような大型の椅子でゆっくり休むことも
旅行者の方も多く訪れてくれます。なかには丸一日滞在されるファミリーも。
会場は渋谷川のほとり。カルガモも訪れます
- 執筆
熊井晃史
- 写真
立山大貴
- 校正
丹野暁江、白井亜弥
- キャプション
菊池香帆