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若林恵「発注を考える 未来の奴隷にならないために」

これは、複合施設である渋谷キャストの7周年記念として制作し、無料配布をしてきた小冊子の本文をオンラインで公開するものです。2024年4月から、2年の時を経てなぜ今か。この社会全体に『good stream(良い流れ)』を生み出していきたい」とする、このshibuya good streamに多くの示唆を与えてくれるものであり、より良いアーカイブのあり方を模索したかったからです。

小冊子のタイトルテーマは、「頼まれなくたってやっちゃうことを祝う」。

周年記念とはいえ、何を記念すべきなのか。何を祝うべきなのか。その問いへの一つの応えがそれでした。また、ひとつの施設を越えて今の社会において、そのお祝い気分が広がっていくことを想うものでした。ただし、そのような気持ちだけが確信とも言えるもので、それ以外は暗中模索。「独りよがり」や「おせっかい」とは違うのか。同じなのか。手放しでお祝いして良いものなのか。色々と湧き出す逡巡を抱えたままのインタビューのプロセスをそのままにとりまとめています。

編集者の若林恵さんにお話をうかがったのは、「発注」について。

若林さんが設立された黒鳥社のミッションにある「『想像』は『創造』に先立つ」という言葉を借りるならば、発注は、仕事や社会に先立つということです。であれば、より良い社会や仕事を望むなら、そこに先立つものを見直さないといけないように思います。頼まれなくたってやっちゃうことを祝うためにも、その表裏である「頼まれてやる」という発注という営みについても考えたいと思った次第です。

右:若林恵 左:熊井晃史(shibuya good stream及び、そのコンセプトイベントshibuya slow streamのディレクターを務める)

黒鳥社
雑誌、ウェブ、映像、イベント、旅などメディアを問わず、コンテンツをプロダクション(制作)している、若林さんによる「コンテンツ・レーベル」。「よりよい『想像』のないところに、よりよい『創造』はありません」とし、「いまの当たり前を疑い、あらゆる物事について、『別のありようを再想像(Re-Imagine)する』」というミッションがしびれます。

若林恵・畑中章宏「『忘れられた日本人』をひらく−宮本常一と「世間」のデモクラシー」黒鳥社
「民主主義の日本的起源」を探すと銘打たれたこの書籍で、一つのモチーフになってくるのが、宮本常一が描写している「村の寄り合い」というものです。投票や採決ではなく、「だらだら」と続く終わりのない話し合いのなかで、それぞれの体験や知識が持ち寄られて、合意形成が成されていく。書籍中のフレーズをお借りすると「これからも一緒に生きていかなければならないという前提に立った上で物事が決定されてなくてはならない」ということであり、それは今回の取材のなかで語られる「信頼」ということと通底してくるような気がします。

宇野重規・若林恵(聞き手)「実験の民主主義−トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ」中央新書
若林さんはありとあらゆるコンテンツを制作されていますが、ここでは最近の民主主義を巡る書籍をご紹介しています。刺激的な内容そのものに関しては、是非書籍にあたって頂ければと思いますが、前述の「村の寄り合い」を地で行くような「対話を一つの実験として遂行する」という書籍のスタイルに、目的と手段の折り重なりというか融合を感じてアツくなります。

若林恵「さようなら未来−エディターズ・クロニクル2010-2017」岩波書店
今回の取材でも若林さんから「未来の奴隷になるな」というようなフレーズが出てきます。「さようなら未来」とはつまりそういうことです。

なぜ「発注」か?

熊井:「水刺身を食べる会」、楽しかったです。黒鳥社のYouTubeチャンネルで配信されている「blkswn jukebox」のなかで韓国映画『楽園の夜』で重要な役割を果たす水刺身(ムルフェ)の話題が、相方の小熊俊哉さんと盛り上がって、じゃあ視聴者と食べようという流れもいい感じでした。

若林:思ってたよりも楽しい会になってよかったです。

熊井:参加者された方もみんな素敵で、飲み食いしながら、若林さんが『WIRED』時代に特集しようとされていた「発注」の話で盛り上がりました。今回制作している冊子のテーマが「頼まれなくたってやっちゃうことを祝う」というもので、その生みの親と言うか、もともとのきっかけとなっていたのが、田中元子さんと、そして若林さんだったんです。今日はその幻の「発注」特集で何をやろうとされていたのかというところを伺いたくてインタビューにきました。水刺し身の会でも、発注の難しさについてみなさん思うところもあったようで、大盛り上がりでしたよね。

若林:もう5年以上も前のことなので、そもそもなぜ発注の特集をやろうと思ったのかは正直あまり覚えてないんですよね。おそらくですが、「新しい会社」という特集をやった流れが強く作用していたのだと思いますが、その特集のなかで、DJ機器メーカーのVestaxの創業者の椎野秀聰さんをインタビューしたのが大きかったのかもしれません。

熊井:それ、どういうお話ですか?

若林:椎野さんは、インタビューのなかで生産工場の話をされていて、生産工場の現状の技術力に収まる発注ばかりしていると技術力は落ちて行くばかりなので、現状の能力よりをちょっと超えるような発注をしないとダメなんだと仰ってて、感心しちゃったんですね。

熊井:発注を通じて工場を育てるということですよね。

若林:そうなんです。そう考えると、今のわたしたちたちの発注って、ただ金銭で能力を売買してるだけじゃないですか。発注というものをただの等価交換としてしか捉えていないところに、すでにして日本の経済文化の貧しさがあるのではないか、ということですね。

熊井:発注の非対称性なんて話を、水刺身の会ではされていました。

若林:発注の変なところは、発注する側が、発注している事柄については、多くの場合シロウトだということです。建築の例が一番わかりやすいですが、素材、工法、関連する法規なのについて建築家よりも理解している施主なんて、ほとんどいないわけですよね。発注という行為には、そもそも情報の非対称性があって、ほとんどの場合、発注する側=お金を払う側の方が情報を持っていない。こうした基本的な構造を理解していないから、金で被発注者の頬を引っ叩くような発注ばかりが罷り通るのではないですか。

熊井:そう言われるとハッとしますよね。

熊井:日々業務の中でやっていることなのに、ほとんど語られませんよね。そもそも学問としてどこに収まるべき話なのかもよくわかりませんし、マニュアルのようなものも探せばあるのかもしれませんが、一般化されているとは言えないと思います。専門家もいないと思うんですよね。

熊井:「発注学」みたいなものはないと。

若林:そうなんです。なので、特集をやろうと思ったはいいんですが、先行する議論の蓄積もないので、どうアプローチしていいものか当時も悩んでいたんです。そしたら編集長職をクビになってしまったので、やらずに済んで、ある意味ほっとはしたんですよ。で、ずっとそのまま放置していたんですが、実は去年になって複数人から「発注の本つくってくださいよ」と言われたんです。

熊井:わたしもそのひとりでした。

若林:なかでもとりわけしつこく言ってきたのがtofubeatsさんで、会うたびに「発注、やりましょうよ」と言うんですね。言いたいことがいっぱいあるということだと思うんですが、そういった声に押されてチラチラ知り合いなんかに発注の話をすると、「仕事は発注がすべてでしょ!」って感じで食いついてくる人なんかもいて、ちょっと真面目に考えてみようかという気になってきたということなんです。とはいえ、相変わらず、どう整理して行けばいいのか、わからない話ではあるんですね。

恨み骨髄!ブルシット発注!

熊井:本にするイメージなんですか?

若林:本を作るとなると、それなりに一貫性をもったパッケージにしないといけないわけです。始まりと終わりを作らないといけない。ところが、発注の話は、どこから話し始めたらいいのかわからないですし、どこに終わりを設定するのかもわかりませんから、1冊でどうこうできる感じでもないなとは薄々は感じていたんです。よほど考えがまとまってないと、1冊にまとめるのは難しい。なので、取材やワークショップみたいなものを、試験的に進めて行きながら、発注とは何かを考えていくような建て付けにならやれるかな、と漠然と考えているところです。

熊井:雑誌にしちゃうとか?

若林:雑誌のいいところは、やっぱり適当でいいところなんです。雑誌づくりというのは、ひょんな思いつきを無理矢理広げていって、それをやりながら根拠をみつけていくというプロセスなので、新しい物事を理解していくプロセスとして、雑誌づくりっていうのは実はかなり有効な手法なんです。一昨年からKOKUYOさんの「WORKSIGHT」というメディアの制作をお手伝いしていますが、これなんかは完全にそういうやり方ですね。あまり深い考えをもたないまま特集案を立てて、やっていく中で考えていく。出来上がって、はじめて「ああ、こういう特集だったんだな」ってことを理解するという感じです。

熊井:発注で雑誌をやるとなると、どういうことになるんですかね?

若林:おそらく企画は無限に立てられると思うんです。というのも、発注は、どんな業界のどんな業種にも関わるものですので、業界切りや業種切りもできると思いますし、発注に関する情報に期待があるとすれば、間違いなくマニュアル的な価値への期待が一番大きいと思うので、そういう観点からもやれることはあります。さらに先ほどちょっと語ったように、そもそも「発注って何?」という話もあって、これには当然、経済学や経営学的な視点もあるでしょうし、情報の交換や、コミュニケーションの問題として扱うこともできそうです。あるいは、柄谷行人さんの「交換様式」を援用しながら捉えて行けば文明論もできるかもしれませんし、岩井克人さんの会社論を中心に整理して見るようなことだってできるかもしれません。

熊井:壮大ですね。

若林:おそらく誰も真正面からやってないテーマだと思うので、多少雑でも怒られないかなとは思っているのですが、まあ、いずれにせよ、やっぱり面白いのは、「発注あるある」みたいなことだと思うので、それはいろんな人に聞いてみたいですよね。「恨み骨髄のクソ発注」とか(笑)。

熊井:ブルシット発注ですね。

若林:「一生許さない」っていうような発注ですね。そこまででなくても、色んな人が「おいおい」って怒ったりドン引きしたような発注には少なからず出会っているのではないかと思います。

熊井:聞きたいですねえ。

若林:あるいは、その逆パターンで、「この発注は嬉しかった」といったものもあると思うんです。そういうものについては、被発注者だけでなく、発注した当人にも話を聞いてみたいですね。

熊井:一生恨む発注。一生感謝する発注。

若林:さらに別の視点から、外国と日本の発注の違いなんていうところも気になります。昔、海外の自動車メーカー日本支社のコミュニケーションのトップと話していたら、「なんで日本人はすぐ代理店に発注するんだ?」って首を傾げていたことがあって。その人は本国にいたときには、CMのディレクターや制作スタジオを自分で探して、自分で直接交渉して、仕事を依頼していたというんですね。

熊井:その方が絶対仕事は楽しいですよね。でも、それをやらなくなっていくことで、発注する側が、まともに発注ができなくなっていきますね。発注者が発注書を書けない、発注にまつわる要件定義もできない、といった話はよく聞きます。

若林:発注能力の欠如。これは大問題ですよね。なんですが、そもそも「発注能力」って何なのかということを誰も論じないので、とりあえずこれまでのやり方でいいや、となってしまうんでしょうね。

熊井:発注能力がないっていうのは、目利き力がないっていう話になってくるんですか。

若林:どうでしょうね。もし仮にそうだとするなら、じゃあその「目利き力」って一体何なんだ、ともなりますよね。ここはさっき話に出た、発注者と被発注者の情報の非対称性と関わってくる話でして、「発注者の方が情報を持っていない」という制限の中で発動される「目利き力」とは何かということを考えると、単に何かに詳しくなればいいという話ではなくなるわけですね。

熊井:ああ、たしかに。「おれは目利きなんだ」って感じでくる発注者は、たしかにウザいかもです。

若林:かつ、先のVestaxの椎野さんの話の背後には、発注者の責任、あるいは発注者の倫理、といったものも控えていそうですから、「発注能力」という言葉の背後には、かなり複雑なパラメータが潜んでいるのだと思います。大きな企業が、個人や零細企業に何かを発注する際には、すでにして権力の勾配があるわけですし、そうしたことをある意味トータルに考慮しないと、おそらくいい発注というものは生まれないんじゃないでしょうか。

熊井:「権力」をめぐるダイナミズムをちゃんと読み解けないと「クソ発注」が発生するわけですね。なるほど、発注、やっぱり深いですね。

若林:深いかどうかはおいても、語るべきことがいっぱいあるのは間違いないです。権力という話でいえば、「発注における心理的安全性」なんていうのも面白いテーマだと思いますし、それは最終的には「信頼」のような話につながっていくような気がします。

熊井:どういうことでしょう。

若林:権力勾配があるところでの発注は、結局は忖度に行き着きますよね。予算規模の大きい案件で、相手が大きな会社で、例えばクリエイティブの仕事を発注されたら、いくら「自由にやってくれ」と言われても、誰も自由にはやらないですよね。「相手が喜ぶ感じ」の「自由な雰囲気のもの」を先回りして探り当てるみたいなことになりますよね。つまり、発注者/被発注者のそもそものパワーバランスの中に、語られない「要件」が含まれているということになるわけですが、被発注者は日々そのことを気にしがら仕事をしている一方、発注側はそのことにまったく気づいていないことが、ままありそうです。そこにさらに別の勾配があったりもするわけですよね。

熊井:面白いですね。これはジェンダーや多様性をめぐる議論なんかにも繋がってきますね。

若林:とはいえ、そもそもが対等な関係性ではないからこそ、発注の必要性が生じているわけですから、お互い対等にやりましょう、といったところで何の解決にもなりません。

熊井:自社ではできないことがあるから、その道にプロに発注しているわけですからね。色んな非対称が関わっているわけですね。

若林:まさにその通りで、実際、経済規模も、持っている情報や技術力も、使っている言語も、行動様式も、職業倫理も異なっているような相手が必要になるのが、発注という行為のそもそもの基盤であるわけですから、そこをまずはよく考えないとですよね。それを踏まえた上で「対等であることはいかに可能か」を考えていくと、おそらく「信頼」とは何かという話になっていくような気がします。

熊井:なるほど〜。面白いです。仕事とは何か、という問いそのもののように感じます。

見積もりと再現可能性

若林:あるいは、もうちょっと具体的に「見積もり」なんていう話も面白いんです。

熊井:ほお。

若林:以前、実は一回だけ発注に関するイベントをやったことがあって、そこに建築家をお迎えして話を聞いたのですが、その方がおっしゃるには「100%正確な見積もり」は存在しないというんですね。

熊井:ほお。

若林:つまり「100%正確な見積もり」をつくるためには「一回その建物を建てるしかない」ということ
なのですが、これは何を言っているかと言いますと、仕事というものは、常に一回性の中にあるということなのではないかと思います。

熊井:再現性というものが、実はないということですね。であればこそ、見積もりも、要件定義も、原理的には不可能だと。そういえば、『WIRED』日本版編集長を退任されたときに発表された「いつも未来に驚かされていたい」という文章の中でも、「あらゆる仕事って実は一回しかないもののような感じがする」おっしゃってましたよね。

若林:そうかもしれません。そんなことを書いたのも、そもそも発注のことが頭にあったからだと思うのですが、そうやって発注を考えていくとわかってくるのは、わたしたちの社会が、仕事というものをいかに「再現可能性」において捉えているのかということです。見積もりも、その仕事を「一回性」において捉えるのか、それとも「再現可能性」において捉えるのかで、実は、その意味やメッセージが大きく変わってくることになるはずですが、コンプライアンスの観点から、見積もりのようなものが、ガチガチに規制されていってしまうと、本来「一回性」の中にあるものが、「再現可能性」の中に押し込められてしまって、無理が生じてくることになるのだと感じます。

熊井:仕事というものを根幹で支えているパラダイムを180度転換しないと、その隘路から抜け出せなくなりそうですね。

若林:加えて、見積もりというものの中には、「時間」の概念が含まれていたりもしますよね。同じような仕事であっても、その時の時間的条件によって価格は変わってくるでしょうし、そこに取引相手との継続した関係性が関与してくると、前回、今回、次回の見積もりが弾力性をもって変動することもありますよね。

熊井:「今回は負けとくか」みたいなことですよね。

若林:関係性が継続することを一切考慮しなければ、仕事は常にワンショットの仕事になり、「定価」に基づいて製品やサービスや労働を販売することになりますが、その「定価」というものは、基本やはり再現可能性=大量生産に根をもつ概念だと思うんですね。そしてそれはあらゆる仕事を、工業製品の調達と同じ位相で考えるということへとつながっているような気がします。

熊井:ああ、そうですね。派遣労働の基底にある考え方は、まさに「調達」ですね。とはいえ「発注」と「調達」はどう違うのか、と言われると、どこが違うのか判然としませんね。

若林:そこは実は自分もよくわかっていないところですが、そこが実は、「人間はロボット/AIに仕事を奪われるのか?」という議論をめぐるひとつの大きな分岐点なのではないかと感じます。

熊井:面白いですね。Chat GPTにプロンプトを書くのと、発注は違うのか、同じなのか。

若林:ここは、掘った方がいい話かもしれませんね。

熊井:この辺りの話は、とはいえ、「いつも未来に驚かされていたい」の中でも語られていましたよね。「近代の産業社会は、その理想形として最初から「超人=ポスト・ヒューマンを仮想してきた」「工場ってのは最初っからロボットに最適化されたシステムで、そうなんだけど当初はそんなロボットなんてないから、ヒトをそれに近いものとしてつくりあげるために近代教育が生み出され、修理工場として近代病院ってものが整備されていったという」。この考え方は、宇野重規先生との著書『実験の民主主義』のなかでも、官僚制度とDXをめぐる議論で敷衍されていましたよね。

若林:ずっと同じ話をしてるということですよね(笑)。いずれにせよ、「仕事」というものをめぐるこれまでのパラダイムと、「仕事」をめぐる現実とがズレてしまい、それがうまく合致しないところに、さまざまな困難があるのだろうと考えているということなのだと思います。そして、発注というものを考えることで、もしかしたら、そのズレを明確化できるのかもしれないと思っているのかもしれません。

熊井:面白いです。

未来の奴隷にならないために

熊井:発注を考えることは「世直し」なんだなって感じがしてきました。

若林:それは自分もそう思うところはあります(笑)。世直しですよ。

熊井:日本において、発注不全に由来する現象がめちゃめちゃたくさん起こっていて、その具体的な現れとしては、他人を奴隷化したりだとか、仕事というものの全体性を担保しなければいけないのにそこが見過ごされていたり、さらにはそもそも楽しくないといったことが累々とあると。で、それをどうにかするぞという。

若林:どうにかできるかわかりませんが、発注については、言語化も意識化もされていない領域がたくさんあると思うので、それを言語化していくことだけでも意味はあるのかな、と。

熊井:より良い発注というものが、世の中に必要だなと改めて感じるのですが、発注を「誰かに何かのお願いごとする」ってことで考えると、全員がおしなべて発注者でもあり受注者でもあるはずですよね。生きることそのものって感じもしてきます。

若林:そうですね。その観点から見れば、発注を一種の相互依存関係として捉えることもできると思いますし、そうした相互依存性の中においてビジネスというものを捉え直すと、もしかしたら「ケア」という概念につながっていくような道筋も見えてくるのかもしれません。そもそも、仕事というものが、多種多様な仕事が集約されることで成り立っているという感覚がなければ、発注はちゃんとできないはずです。それなのに、自分たちはなんの依存もなく自立して働いてるという幻想をもっているから、発注をコンビニでおにぎりを買うようなものとしてしか考えられなくなってしまうんですね。

熊井:自分が何によって成り立ってるか分からないから、自分が何をしていて、何ができて、何ができないのかも分からなくなってしまう。そうであればこそ、ますます「再現性」が重宝されるということになっているのかもしれません。「これからはVUCA(Volatility/変動性・Uncertainty/不確実性・Complexity/複雑性・Ambiguity/曖昧性)の時代だって散々言われているにも関わらず、再現性の中にどんどん自分たちを押し込んでいってしまっているのは大きな矛盾ですね。

若林:今年の5月にわたしがやっている黒鳥社という出版社から刊行する予定の本がありまして、ジョン・バージャーという英国人作家が1974年に書いた『第七の男』という本の日本語版なのですが、当時のヨーロッパの移民の問題を扱っています。そのなかに、資本主義社会における移民労働者の心の中で、過去・現在・未来が、どう感知されているかを分析したシークエンスがあるのですが、バージャーは、移民労働者には「現在」というものがないというんですね。つらい労働を自分の中で正当化するために、過酷な「現在」は、約束された未来のためにあると自分に言い聞かせ、現在の全てを未来に投資してしまう。結果、現在がただただ空虚化していくというわけです。

熊井:いつか幸せになるんだってずっと思い続けて、そのいつかは永遠にこない。いつかなにかやろうと思っていても、そのいつかも永遠にこない。「未来の奴隷」になってしまうわけですね。

若林:50年前に書かれた本ですが、他人事ではないと言いますか、ますますリアリティが増しています。これを読むと、わたしたち自身が、すでにして移民労働者にほかならないのだと思えてきます。

熊井:きついですね。身につまされます。

若林:でもまあ、資本主義っていうものが、そもそもそういうものなのかもしれませんので、もうしょうがないなと諦めたい気持ちもあるのですが、自分ひとりで戦っても絶対壊れないような「資本主義」を真正面から相手にするのではなく、別の観点から未来というもの捉え直してみたり、現在という時間を取り戻せないかと考えてみたりすることで、自分の中にある「資本主義」や「近代社会」をめぐるパラダイムをずらしたりすることができないか、というのがおそらく発注に興味をもっている理由なのだと思います。

熊井:「頼まれなくたってやっちゃうことを祝う」という今回の冊子のテーマの核心は、そう考えると、「現在を自分に取り戻すこと」なのかもしれません。

若林:仕事というものが、自分の「人生の時間」と切れちゃっているんですよね。そんな所で経済なんか発展するわけないですよね。

企画/聞き手

熊井晃史

冊子デザイン/撮影

上妻森土

校正

日比楽那

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渋谷キャスト