shibuya slow stream vol.21「勇気と呑気」 ふりかえり考察トーク
イベントを実施して、おしまい。それは、「ビルを作っておしまい」の街づくりとどこか似てきます。shibuya slow streamは、そうであってはなりません。企画や準備に心を費やして迎えつつ、その成果をどうやって積み重ねていけるか!?というところが大事なはず。というわけで、心に留めておいたり、次に活かしていくための手応えや感触って何だったの!?それを一同でふりかえって考察していく時間も大切にしています。ここでは、その一部を当日の様子とともにご紹介します。
今回のテーマ:「勇気と呑気」
思い切り吸い込みたくなるような新鮮な空気が流れる。肌あたりの心地よい風が流れる。都市の良い状態というものを、「気の巡りの良さ」とすると、じゃあ、どのような「気」が都市を巡ると良いのか?ということも考えたくなります。たとえば、勇気と呑気。街なかを、そんな気分が巡っていく。そういう理想の持ち方があっても良い気がしてきます。というわけで「勇気と呑気」な、音楽やフードやドリンクや遊びが集まります。子どもも、大人も、ペットも大歓迎。ぜひ、足をお運びください。
ジレンマを希望に転じたい
動物園や博物館や美術館みたいな施設の仕事をしたことがあって、その時に思ったのは凄いジレンマがそこにあるんだなってことなんですね。
-え?
保護と展示という。本来、それって矛盾するんですよ。動物や美術品の保護や保全のことを考えると、展示という見世物にしないほうが良い。とはいえ、多くの人に見てもらうことによって、考えるきっかけになったり、次のインスピレーションを生むみたいな、社会教育効果もあることにはある。それに、経済活動としてお金を稼ぐという意味では展示は欠かせないという。だから、そういう矛盾するようなこととしっかり向き合って、その緊張関係から生まれるエネルギーを意味や意義のあることに向けていく胆力が求められているなって。
-ひょっとして今回のテーマの「勇気と呑気」の話ですか?
あ、そうそう。勇気と呑気も一見、相反する感じはありますよね。まあ、でも、そもそも都市ってジレンマの巣窟って感じもしませんか。
-なはははは。
開催中止を味わう
-1日目、雨が降っちゃいましたね。
うん。かなり降っちゃった。屋外での開催なので、どうしても中止にせざるを得ない。泣く泣く、そう判断するんですが、キュレーターのミヤジこと宮﨑くんが「雨が降ったら降ったらで、それはそれの応え方があるはずだから」みたいなことを言ってて、また面白いこと言うなって。
-転んでもただじゃおかない、みたいな。
そうそう。そういう一言にやっぱり突き動かされるんですよね。中止にするにしても、何かできることはないかなっていうことを考えるはずみがつく。
-今回、10代向けのクリエイティブスクール「GAKU」とも連動していて、そこのアートキュレーションのクラスの成果展が、slow streamと同じく渋谷川のほとりで開催される予定だったところ、GAKUの拠点でもある渋谷パルコ9階に急遽会場を移しての開催をしましたよね。
そうそう。ただの中止にはしない。それに、そこに関係者もお客さんも含めてみんなが集まれたりもして、それはそれで大切な時間が流れるんですよね。予定通り開催できなかったことを共に味わう感じもあって、そういう時にしか生まれない会話もあるという。
-計画が叶わなかったことを味わう…。タイトルも印象的でしたよね。「渋谷で『いきいき』生きるためのレシピ」という…。
都市でいきいきするということが、アートだったり批評性だったりするものを帯びちゃう。。
-雨でも「勇気と呑気」。
確かに。
GAKUによる「歓待としてのキュレーション」の成果展『渋谷でいきいき生きるためのレシピ』。1日目は雨天のため、GAKUの教室(渋谷パルコ9階)に急遽会場変更
『渋谷でいきいき生きるためのレシピ』では、終始リラックスした雰囲気
出展予定だったKISHIN TATTOOも混ざってくれました
2日目は、渋谷川のほとりで屋外開催。ピクニックみたい
「渋谷っぽくない」は褒め言葉なのか?
slow streamに足を運んでくださる方や出演や出店をしてくれる方から、結構な頻度で言われるのが「渋谷ぽくない」というフレーズじゃないですか。
-良く聞きますね。
それを肯定的に言ってくれているんですけど、考えないといけないことがそこにある気がしてて、ここ数ヶ月、わりとずっとぐるぐると思考を巡らせてたんです。というのも、90年代は「渋谷系」という言葉が褒め言葉というか、ひとつのジャンルとして認識されていたはずなんですよね。
-ファッションとか音楽とか。
そうそう。で、四半世紀を経た現在において、渋谷という言葉の響き方がどのように変わっていったのか?というところを、まさに身を持って体感しているということなんだなって。で、そういうことを考える時に参考になった書籍のひとつが、北山恒という建築家による「未来都市はムラに近似する」。
-村!?
未来は村にあるという提言なんですね。「20世紀という世紀は集落(=ムラ)と都市の分離を推し進めてきた」という歴史があるけども、そうではなくてこれからは、村というあり様に学ぶべきなんじゃないか?という。例えば、北山さんにとって建築とは、「身体に対応する空間のスケールを創造することによって、人々の活動的生を獲得できるもの」で、建築家も、これまでの建築家像を乗り越えていかないといけないという話なんですね。
-「活動的生」って、いきいきってことじゃないですか。
ですね。その、みんながいきいきするという意味でも、「生活」というところに目を向けないといけないよねということなんだけども、こんな感じでこれからの建築家像が語られています。「拡張拡大の社会に適応してきた建築家や都市計画家たちの仕事は、人々の行動を空間によって規制し、同時に空間を商品化することであったが、これから求められる役割は生活を支える地域社会そのものを指し示す空間を生み出すことになる。それは権力側ではなく、生活から生み出される制度を空間化するという創造行為である」って。
-「渋谷ぽくない」というのは、村っぽいということでもあるし、生活感があるということなんですかね。
消費者としてそこにいる、というよりも、そこで暮らしているというか、なんというか、生きているみたいなニュアンスはあるんじゃないかなとは思います。
会場の稲荷橋広場
オセロを介して友達に。公園に置いてある将棋盤をなんだか思い出す風景
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空間演出のReverseMaker Hi-Dさんのブースでは、膜作りワークショップ
文化=生活
ちなみに、どんなときに文化的だなあという実感って湧きます?
-歴史がある街に訪れたときとか!?
そうですよね。普段の暮らしや仕事の中ではあまり感じれなくて、特別な旅行とかの余暇のときに、文化を感じるみたいなことってあって、ただ、そうなると、わたしたちの日常は文化的ではないのか?という話になってくるんですよね。
-食器を良いものにしたり、自炊したり、散歩をするようにしたり、いろいろと工夫はしてますけどね。
そうそう、日常の中にそういう感覚のものを取り戻そうとしている感じはあるんですけど、内山節という哲学者が「共同体の基礎理論」のなかで、日常生活そのものが文化である状態もかつてはあったよね、ということを言っているんですね。「経済が社会のなかに埋め込まれていた時代が共同体を生み出していたのである。もっとも共同体のなかに埋め込まれていたのは経済だけではなかった。文化も埋め込まれていたし、土着的な信仰や、そもそも『生』と『死』自体が共同体のなかには埋め込まれていたのである。だからたとえば文化も特別なものではなかった。文化のすべてが日常生活のなかで展開していた。いまでは私たちは『生活文化』等の言葉を使って暮らしのなかの文化をみつめるようになっているが、共同体においてはそれを文化という必要性もなかった」って。
-生活も仕事も経済も文化も、生も死も、すべてが切り離されず一緒になってたということですか。
資本主義的なものが偏在する前には、そういうことだったよねということが語られています。そういうことを考えながら、改めて渋谷川や渋谷ストリームというものをみていくと、ちょっと面白いんですよね。なんとなく生活感が感じられるし、渋谷ストリームの広場は、金王八幡宮のお祭りでは神酒所(みきしょ)としても使われていたりして、わりと土着性が高いんですよね。お神輿が巡る拠点になっているんですよ。
-近くに寺社仏閣や祠もあって歴史も感じますよね。
そういう歴史の連続性を感じることの面白さってありますよね。
Spiral Clubによる渋谷川のほとりのビオトープ観察会
ビオトープは、小さな生き物を宿しています
渋谷川をぐるっと一周、ゴミ拾い
街の掲示板にslow streamのチラシも
自然を含めた自治
自分たちが何を目指してて何をしたいのか?というところのボキャブラリーを豊かにしていきたいという気持ちがあって、さっきの内山さんの書籍にslow streamにもつながる話があったので、少し話を展開します。「自然を含めた自治」というものなんですけど。
-自然と自治。
えっと「ヨーロッパに生まれた自治は人間社会の自治である。だから、人間どうしの契約という考え方も出てくる。民主主義もまた人間社会の統治の仕方である。ところが日本の社会観は自然と人間の社会である。そうである以上、自治も自然と人間の自治でなければならなくなる」ということなんです。
-あー。
ヌシを研究している、國學院大學の伊東龍平先生と「渋谷にヌシは可能か?」というトークイベントを開催したときから考えているのは、渋谷にヌシがいて欲しいと、もし思うなら、それは一体何を願うものなんだ?ということなんですね。それって、いろんな応え方があるんです。
-人間と自然の共生とか?
そう。伊藤さんのヌシの定義を借りると、「集団的詩的想像力の発揮」というところの想像力の醸成みたいな話にもなってくるんですけど、さらに「自然を含めた自治」でもあるなって。
-話がつながっていきますね。
spiral clubによる「渋谷川のほとりのビオトープづくり」も、YUMEGIWAによる「渋谷の川のヌシに捧げる儀式」も、ゴミ拾い活動も、そのようなことへと向かっていくものだと思っているんですね。なんか自治っていうと難しく響いちゃうかもしれないんですけど、たとえばですよ、「渋谷川がかつての清流のようになったとして、そこの清掃をみんなでやりつつ、そこで鰻がとれちゃったりして、それを感謝しながらみんなで食べる」みたいなことだと思っているんですよ。
-楽しそう!
まあ、妄想ですけども。でも、かつての明治大正時代の渋谷川には鰻とか蛍とかやっぱりいたらしいですね。水車もあったし。
Yosi Horikawa
渋谷駅すぐの風景に見えない
DODDODO×UNBE
おしるこちゃん
RUHO(当日広場に居合わせた方が詩を詠んでセッションしている様子)
grrrden
Mayu Amano
飲食も充実。街のフードコートみたい
都市とは、宿場町である
-良い都市とは、どのようなものか?って考えるの楽しいですよね。
すよね。なんかそこからかなあって。
-都市って、そもそもなんなんでしょうね。
すよね。「都市は人類最高の発明である」という書籍もあるんですけど、そもそも都市って宿場町として栄えていったという経緯があるじゃないですか。
-人の往来があると、泊まったり休んだりする場所が必要ですもんね。
いろんな人がいるから、交流も生まれて、いろんな情報やものの交換がされていく。そういう宿場町について、内山さんが同じく「共同体の基礎理論」で印象的な説明を加えています。宿屋が儲からなくても経営をつづける意義についての話なんですけど。
-儲からなくても良い宿屋!?
これまた引用します。「湯治宿の主人に、なぜこんな儲からないことを何百年もつづけてきたのかと、私は聞いたことがある。その宿は江戸時代からつづいた宿で、生活の基盤は農業の方にあった。湯治宿はほとんど収入に寄与していなかった。『湯治宿というものは儲からなくてもいいんだ』と宿の主人はいった。昔から遠方から当時のグループがくると、宿の庭などに市がたった。きた人たちもいろいろなものをもってきたし、村の人もさまざまなものをもって集まってきた。庭で物々交換の市が立ったのである。そのなかでも重要だったのは作物の種や農具、仕事上のさまざまな道具だったという。新しく便利な農具や道具を手に入れた人は、それをもってきて使い方を教えた。新しい作物の種をもってきた人は栽培法を含めて『販売』した。そういう場所の提供が湯治宿の役割だから、儲からなくても経営をつづける意義はあったのだと宿の主人はいった」ということなんです。
-「宿の庭などに市がたった」っていうのも良いですね。ちょっとslow streamっぽい。
吉江俊という都市計画研究者が、「<迂回する経済>」の都市論」という書籍が、この話に連なる感じで示唆的なんですけど、「わかりやすい利益や目先の役に立つこととは異なる」意味や意義を出現させるためには「迂回」しないといけないということで。
-迂回、遠回り、回り道、寄り道。
因果関係というものは、そんな単純に考えられるものではないよねっていう感じなんですが、「都市開発では、成功させるためのストーリーが定式化されやすく、多くの場合それが踏襲される。しかし、実際の都市や地域の現場では、そうしたストーリーでは捉えられない小さな動きがあり、そこには開発を正当化する力強い経済合理性とは異なる小さな合理性が、無数に働いている。その合理性とは暮らしの合理性であり、私たちのパブリックライフの合理性である。最短距離で利益を追求する計画の代わりに、パブリックライフに目を向け、それがわかりやすい利益や目先の役に立つこととは異なる、もっと深い次元での生活の豊かさを実現していることに注目するのが「迂回する経済」である」っていうことなんです。
-「深い次元での生活の豊かさ」、気になります。
いろいろと話しがつながっていきますよね。
YUMEGIWAによる渋谷の川のヌシに捧げる儀式
僕らが渋谷川のヌシを呼び覚ます理由
想像上のへにゃへにゃした生き物たちの塗り絵
いい夢を見るためのぶくぶくエナジードリンク
虹と市
遠方からのグループが訪れると宿の庭に市が立つって、なんかわくわくしますよね。山の部族と海の部族の出会いとか、なんかそういう想像が膨らみます。都市と市っていうのは、ほとんど同じ話になってくる気がするんですけど、歴史学者の網野善彦が、市と虹について触れていて、凄い印象的だったんですよ。
-市と虹!?
「日本の歴史をよみなおす」では、「虹が立つと、かならずそこに市を立てなくてはならないという慣習が古くからありました」とされています。
-ロマンティック!
なんかグッと来るものがありますよね。同著で、歴史学者の勝俣鎮夫の研究に触れながら「虹の立つところに市を立てるのは日本だけではなくて、ほかの民族にもそういう慣習があり、それは虹が、あの世とこの世、神の世界と俗界とのかけ橋なので、そこでは交易をおこなって神を喜ばさなくてはいけないという観念があったのではないか、といっておられます。そしてこれによってもわかるように市場は、神の世界と人間の世界、聖なる世界と俗界との境に設定される、と指摘しておられます」とのことでした。
-交易をおこなって神を喜ばさなくてはいけない!
渋谷川のヌシを喜ばせたいと思う気持ちがやっぱり、ある。で、その気持があながち単なる思いつきを超えていく感じがあるんですよね。調べれば調べるほどに。
綱引きの綱が置いてあるslow streamでは自然と遊びが生まれます
WHR(S)hop
GRRRDEN
全体整体 kumo
虹を見ると踊る心
-今回のふりかえりトークも、slow streamの当日のことなどに全然触れてないですね。
現場にいるとやっぱり心が動く局面がたくさんあって、本当は全ての内容を紹介していきたいという気持ちがあるんですけど、それを直接的にレポーティングするよりも、そこからインスピレーションを受けたことを言いたくなっちゃうんですよね。自分の中では、いろいろとつながっているんですけども、それを全部書き始めると凄い分量になるというジレンマが…。
-「迂回する」レポート。
に、なっちゃう。でも、当日の様子は、立山くんが空気感もとらえた写真をたくさん撮影してくれているし、菊池さんがInstagramでばしばし発信してくれているので、あの手この手で、アーカイブを残していければ良いかなって。事実だけじゃなくて、インスピレーションのアーカイブ。
-インスピレーションの記録。
それでいうと、さっきの「虹が立つと、かならずそこに市を立てなくてはならない」っていう話があったじゃないですか。社会学者の真木悠介が「時間の比較社会学」という書籍で、近代と前近代、言い換えると資本主義が発展する前と後での時間感覚のようなものを分析しているんですけど、そのなかで「『虹を見ると踊る』心をいつももちつづけていれば、近代社会のビジネスマンやピュロクラットはつとまらないのだ」って言っているんですね。
-「虹を見ると踊る心」!
要は、それがあると経済発展をしない構造になってるよねって。
-ガーン。
いやでも、もう時代もどんどん変わっていく中で、「虹を見ると踊る心」を持ちながら、持ちながらと言うか、それこそが豊かな暮らしや社会をつくることだよね、みたいな感じになっていくんじゃないですかね。なっていくというか、そうしていきたいというか。
-その方が楽しそう!「虹、市、踊る心」って、なんかslow streamぽいです。
「勇気と呑気」っていうことで。
-!!!
「勇気と呑気」って、踏ん張って出すもんじゃなくて、本当は、常にそこにあるものだと思うんですね。だから、それを社会に巡らせていこうよって思うし、「虹を見ると踊る心」だって、きっとみんなあるでしょ。うちの子どもたちも、虹を見つけて踊ってたもんなー。
ぺのてあ
Djが終わった後のMayu Amanoさん、お客さんたちとの談笑タイムが訪れます
広場のあるもので思い思いに遊んでいく子どもたち
- 執筆
熊井晃史
- 写真
立山大貴
- 校正
丹野暁江、白井亜弥
- キャプション
菊池香帆